■大和田村斎藤家と下野壬生藩
~鳥居のお殿様を支えた名主家~
殿様というのはどうも、世の中の様子や周りの人々の心情にあまり明るくなく、わがままで、ぜいたくというイメージがあります。
落語の「桜鯛(さくらだい)」・「ねぎまの殿様」・「将棋の殿様」などでも、そんな殿様たちが登場します。
しかし、その実像は赤字財政に苦慮し、自ら質素倹約に励み、常に周囲への気配りを欠かせない、気苦労の多い日常だったのです。
◇悲運の鳥居家
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの前哨戦で、徳川家康に託された伏見城を守り、激戦の末、討ち死にした鳥居元忠(もとただ)。彼は13歳の時、駿河(するが)今川氏の人質であった10歳の家康(当時は竹千代(たけちよ))に近侍して以来、忠勤に励みました。
子の忠政(ただまさ)は、父の勲功により出羽国(でわのくに)山形22万石を領しますが、3代忠恒(ただつね)(末期養子(まつごようし)違反)・4代忠春(ただはる)(家臣に斬られた傷で死亡)・5代忠則(ただのり)(家臣への監督責任を問われ謹慎中に急死)と続けて御家(おいえ)断絶の危機にみまわれます。特に忠恒・忠則の場合は領地没収。しかし元忠の旧功を考慮し、跡継ぎへ家督相続が許可されました。そのため6代忠英(ただてる)の所領高は1万石へ激減しますが、若年寄(わかどしより)になると正徳(しょうとく)2(1712)年、下野国壬生(しもつけのくにみぶ)(栃木県壬生町)へ3万石で入封(にゅうほう)します。
◇壬生藩財政の窮迫
8代忠意(ただおき)は奏者番(そうじゃばん)・寺社奉行、若年寄などを経て、天明(てんめい)6(1786)年、老中に出世。その華やかな立身の陰で、藩の財政は支出増大による赤字に転落します。
明和(めいわ)4(1767)年の藩収支予算はかなり厳しいもので、1万400両余という巨額赤字を計上。藩では補填のため、借金返済の停止や上方(かみがた)にある藩領からの金子(きんす)の活用、壬生城下の商人や勝手方御用(かってかたごよう)を務める名主(なぬし)などに対して御用金を課して、どうにか赤字を約970両まで圧縮しました。
◇大和田村名主斎藤家
大和田村(現大和田)は、壬生藩の飛地領(とびちりょう)「山川(やまかわ)領」に含まれ、斎藤家が代々名主役と藩の勝手方御用を務め、多額の御用金を用立てた功績により苗字帯刀(みょうじたいとう)が認められていました。斎藤家が藩に融通した正確な金額は不明ですが、明和4年には元金合計が4千両を超え、利息合計も900両以上でした。この膨大な元利返済に苦慮した藩は、当主の斎藤所左衛門(しょざえもん)を壬生城御殿に招き料理を振る舞い、鳥居家の家紋入り上下(かみしも)を贈ります。さらに、藩主居間での御目見(おめみえ)を許し、給人格(きゅうにんかく)(家臣待遇)の250石取りとしますが、3万石の壬生藩では年寄・家老に次ぐ高禄(こうろく)であり、所左衛門はまさに上級家臣待遇でした。
時代は明治へと変わり、藩が消滅しても鳥居家と斎藤家との関係は続きます。旧藩主鳥居忠文(ただぶみ)は外交官・貴族院議員となり、斎藤家は萬助(まんすけ)が自由民権運動で活躍します。この頃から斎藤家は家産(かさん)改善のため、鳥居家へ繰り返し返済要求を行いますが、そのたびに忠文本人や執事が猶予を願い出る状況でした。結局、明治40(1907)年、一部の返済が行われたことで萬助の子染治(そめじ)が「貴家(鳥居家)ト祖先(斎藤家)トノ旧恩深(きゅうおんふか)キニ鑑ミ」残りは放棄しました。
三和資料館では6日(土)から9月1日(日)まで、館蔵資料展「大和田斎藤家文書(もんじょ)の世界~下野壬生藩の財政を支えた名主家~」を開催します。ぜひ、ご観覧ください。
三和資料館学芸員 白石謙次
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