■奥原晴翠
~奥原晴湖の弟子そして養女として~
男装の女性南画家として知られ、生涯を独身で通した古河出身の奥原晴湖(せいこ)。彼女の弟子の1人に、奥原の姓を継いだ女性がいました。今回は、晴湖の弟子であり養女でもあった奥原晴翠(せいすい)について紹介します。
晴翠は名をてるといい、嘉永5年4月2日、岩代国(福島県)半田銀山に、幕吏(ばくり)であった小杉榮太郞の次女として生まれました。公武合体論に強い影響を受けた榮太郞は京都へ出奔(しゅっぽん)、半田に残された晴翠母子(おやこ)は、路頭に迷う身の上となります。行方知れずの父を探すため、晴翠と母は京都に赴き探し歩くもその消息は知れず、その後、江戸・御徒町に住む晴翠の伯父の元へ身を寄せたのでした。
○晴湖の弟子・養女となる
慶応2年、15歳の晴翠は、母を養うため画の道で身を立てようと、下谷(したや)の摩利支天(まりしてん)横町に住む晴湖の門を叩きます。事情を聞いた晴湖は、晴翠の入門を許しました。日々進歩する晴翠の画技への期待や、追い詰められた家庭の事情を鑑みて、晴湖は晴翠の母と相談し、明治元年、晴翠が17歳の時に自分の養女として迎えます。明治3年には、生涯を晴湖に付き従い忠実な弟子となる渡邊晴嵐(せいらん)が入門。晴嵐は晴湖の画風をよく会得して、小晴湖ともいえる画業を残し、またその器用さから、家政も担える存在でした。一方、晴翠も長年の薫陶(くんとう)を受け、画風は晴湖風でしたが、徐々に独自の芸術を生み出すことに努めるようになります。
さて、同24年、南画界の衰退と摩利支天横町の画室が鉄道敷設用地として買い上げられたことを機に、晴湖は現在の埼玉県熊谷市に隠棲(いんせい)。晴翠は晴嵐と異なり家政に疎く、師の力になれないことを詫びて、このまま都会で諸大家に接し修行を続けることを晴湖に請います。晴湖は晴翠の決意を認め、東京に残ることを許したのでした。
○旅をして画境を開く
とはいえ、中央画壇での南画は、依然として衰退した状況であり、晴翠の生活は苦難に満ちたものになります。外国人相手の仕事を求めて、同門の永峰松濤(しょうとう)と横浜に行くも思うようにいかず、写真の彩色の手内職をして暮らしますが、やがて自分自身の芸術を創造するため、諸国漫遊を思い立ちます。路銀と生活費を揮毫(きごう)して得ながら、北海道や奥羽地方を巡り、実景に接して見聞を広めます。構想を練って自らの画風を確立していき、再び東京に帰ったのは同28年11月のことでした。下谷仲御徒町に家を借りて墨場とし、長い旅で得た画境と画技の研鑽(けんさん)によって描いた作品を、翌29年の日本美術協会に出品。この作品が評価され特賞を受賞します。ちなみに、日本美術協会は伝統絵画による美術団体で、宮内省と深い関係がありました。本作品は御用品として皇室に買い上げられ、晴翠の名声は一気に高まる結果となりました。
○中央画壇での成功
以降、晴翠の作品は、毎年皇室の御用品として買い上げられるようになります。照憲(しょうけん)皇太后や大正天皇の御前で揮毫することも多く、さらに国賓の来朝があるたびに、御前揮毫を行っています。展覧会等にも出品し、大正元年の第6回文展では双幅の作品が入選、晴翠に入門する者も増えて、南画家として一家を成したのでした。画家となって母を養うために晴湖の弟子となり、後に養女にもなった晴翠でしたが、晴湖の元を離れ東京に残り、その画風から一歩踏み出し独自の画風を確立したことが、画壇での成功につながったといえるでしょう。苦難を経ながらも華々しい成功を収めた晴翠は、大正10年9月1日、70歳の生涯を終えたのでした。
古河歴史博物館学芸員 倉井直子
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