文字サイズ
自治体の皆さまへ

《小美玉市の歴史を知ろう62》小川の船頭が記録した「水戸藩船と彦根藩船の対立」

12/15

茨城県小美玉市

江戸時代、水戸藩をはじめ多くの藩の藩邸は江戸に置かれたため、領地から江戸への年貢米や生活物資などの輸送には船を用いました。操船の指揮監督をとったのが船頭(せんどう)で、水戸藩の船頭の多くは小川(下吉影)出身の人々でした。彼らは一年の中で何度も江戸まで航行し、その途中では船同士の口論や傷害事件などが度々起こりました。その中には船頭が記録を残したことで、後世まで伝わっている事件もあります。
今回は、文化8年(1811年)に起きた水戸藩船と彦根藩船の対立を記録した「井伊殿(いいどの)手船掛(てぶねかか)り合扣(あいひかえ)」を紹介します。

◆文化八年四月十七日~水戸藩と彦根藩の接触~
4月17日、水戸藩船が宝珠花河岸(ほうしゅばながし)(現在の埼玉県春日部市)付近を航行中、彦根藩船と行き合いました。その時、彦根藩船の水主(かこ)が水戸藩船の水主にむかって「かぶり物を取れ(=敬意を見せろ)」と叫びました。
彦根藩は下野国(しもつけのくに)佐野(現在の栃木県佐野市)に飛地領(とびちりょう)を持ち、物資輸送のため藩船は頻繁に江戸川を往来していました。
発端は3年前、仙台藩船と彦根藩船の諍(いさか)いで水戸藩船が間に入ったことです。この時水戸藩船が彦根藩船に高圧的な態度をとったことが、彦根藩に深い恨みを抱かせました。以来彦根藩船は、水戸藩に関係する船を見かけると、航行を妨げる行動を起こしました。
5月に入り、水戸藩船頭は彦根藩船六艘が乗組員を増員して江戸川を航行している、と注進(ちゅうしん)を受取りました。船頭は藩からの加勢を願い出る書状を上戸(うわど)運送方役(うんそうかたやくしょ)所へ送りました。水戸藩は彦根藩との不測の事態に備えるため、水戸の城下や江戸の藩邸から水主や目付方(めつけかた)などの役人を計数十人派遣させました。

◆文化八年六月十九日~水戸藩と彦根藩 宿命的対立~
6月19日、水戸藩船が関宿(せきやど)(現在の千葉県野田市)を出船し、中野村と新宿新田(しんしゅくしんでん)村(現在の埼玉県春日部市)の境に差し掛かった際、一艘の彦根藩船と行き合いました。その時、彦根藩船の水主数人が水戸藩船に乗り込み、船内で刀を切りつけたり木を投げつけたりする事件を起こし、水戸藩船の桿役(かんやく)(警護)と水主の二人が水死しました。22日の夜には、彦根藩船から水戸藩船へ切り込む事件が再び起きました。
二つの事件は水戸藩七代藩主・徳川(とくがわ)治紀(はるとし)の怒りを呼び、家老中山(なかやま)氏を通じて幕府の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)・松平(まつだいら)兵庫頭(ひょうごのかみ)へ訴え出ました。8月、水戸藩の船頭や水主らが数度にわたって評定所(ひょうじょうしょ)に呼び出され、事件のあらましや身元などを尋ねられました。
10年(1813年)閏(うるう)11月、幕府から家老中山氏に対し、彦根藩関係者を処罰するとともに、水戸藩に対しても今後このような騒ぎを起こさないよう、気を付けてほしい旨のお達しがありました。
水戸藩船と彦根藩船の対立から約50年後、安政7年(1860年)3月3日に起きた「桜田門外の変」では、水戸浪士らが大老井伊(いい)直弼(なおすけ)を襲撃しました。水戸藩船頭の任務の一つには、航行中の出来事を記録することもあったようですが、「井伊殿手船掛り合扣」は両藩の対立や将来を暗示しているかのようです。

《語句解説》
水主(かこ):船乗りで荷物の積込みや水揚げなどの実務を担った人。
注進(ちゅうしん):事件や出来事などを書き記して急ぎ上申すること。
上戸(うわど)運送方役所(うんそうかたやくしょ):水戸藩の年貢米などの物資輸送業務を担った機関。元和期(1620年代)頃、小川に設置され、享和3年(1803年)頃に上戸(潮来市)へ移転した。
目付方(めつけかた):監察を務める役職。
勘定奉行(かんじょうぶぎょう):江戸幕府の職名。訴訟や財務・民政をつかさどった。
評定所(ひょうじょうしょ):江戸幕府最高の裁判機関。重要な裁判・評議を行った所。

問い合わせ:小川図書館・資料館
【電話】0299-58-5828

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU