■小美玉市から出土した縄文時代早期の完形土器
◇館野(たての)遺跡の調査
館野遺跡は、竹原小学校の北東約500mの小美玉市竹原字館野に所在し、園部川支流左岸の標高約25mの台地上に立地しています。
発掘調査は、常磐自動車道石岡小美玉スマートICから茨城空港を結ぶ道路整備事業に伴い、平成30年に茨城県教育財団が行いました。
調査の結果、縄文時代の竪穴建物跡6棟、袋状土坑12基、遺物包含層(いぶつほうがんそう)1か所、古墳時代の竪穴建物跡12棟などが確認されました。主な遺物は、縄文土器、土師器(はじき)、須恵器、石器、土製品、金属製品などです。
◇縄文時代の始まりと館野の土器
縄文時代は、今から1万6000年前頃に土器が発明され、使用されるようになったことが始まりとされています。土器の発明により、煮炊きが可能になり、前時代の旧石器時代に比べ、多くの動植物などを食料とすることができるようになりました。縄文時代は、それから約1万3000年も続き、土器により、草創(そうそう)期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に分けられています。
館野遺跡の出土遺物の中で注目されるものに、縄文時代早期の尖底(せんてい)土器があります。土器の底が尖(とが)っていることから尖底土器と呼ばれています。尖底土器は、遺物包含層の下層から、ほぼ完全な形で出土しました。早期は今から1万1000~7000年前とされています。この土器は高さ28cmで、体部には貝殻の縁(ふち)を押圧した山形文が描かれています。その文様などから、早期でもやや新しい約8000年前のものと考えられます。
◇尖底土器の謎
縄文時代草創期や早期の土器の底部は、大部分が底の平らではない丸底(まるぞこ)や尖底のものです。なぜ、底の平らではない不安定な土器を約9000年もの長い間使い続けたのでしょうか。丸底や尖底の土器は口縁の方が広がっているので、煮炊きの際、火熱を受け易(やす)いことを挙げることができます。この時期、竪穴建物跡はほとんど造られておらず、定住生活はしていなかったと思われます。竪穴建物が一般化してくるのは早期の終末で、その頃になると平底の土器が出現してきます。定住とともに土器を置くようになったと思われます。また、尖底土器は、置いておく必要のない土器で、液体などを持ち運びするためのものだとする説もあります。この説もこの時期は定住生活をしていないとの考えからきていると思われます。
皆さんも、縄文時代の草創期や早期の土器がなぜ丸底や尖底であるのか、ぜひ考えてみてください。
(市文化財保護審議員会 会長 海老澤稔)
問合せ:生涯学習センターコスモス
【電話】0299-26-9111
<この記事についてアンケートにご協力ください。>