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[特集]千姫(天樹院)様 ~Princess Sen~

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茨城県常総市

徳川家康の孫である千姫様は、激動の戦国時代末期に生まれ、幼くして結婚。実家と嫁ぎ先の争いと滅亡。本多忠刻との桑名での出会いと再婚、哀しき別れ。その半生は非常にドラマチックなものであり、江戸に戻ってからは、将軍・徳川家光の姉として徳川家を支えました。
今月号では、激動の戦国時代を見つめ、強く、しなやかに生き抜いた千姫(天樹院)様の生涯を辿ります。

◇徳川と豊臣をつなぐ運命の子
千姫様は、慶長2年(1597年)に、後の江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫として生まれました。
父は2代将軍となる秀忠、母は織田信長の妹であるお市と小谷城主浅井長政の間に生まれた江です。
千姫様が生まれた当時の政権は豊臣秀吉の手にあり、徳川家は豊臣政権下の大名の1人でした。家康は、自分の死後を案ずる秀吉の求めに応じて、生まれたばかりの千姫様と秀吉の子・秀頼との縁組を約束しました。
翌年、秀吉は死去し、関ヶ原の戦を経て、政権は家康の手に移りましたが、千姫様と秀頼の結婚は秀吉の遺言として忠実に履行されました。この時、千姫様は7歳でした。
家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開きますが、豊臣家は徳川家の支配を良しとせず、2度の戦を引き起こすこととなります。最後の大坂夏の陣では、千姫様は夫・秀頼とその母・淀殿の助命嘆願に家康の元に赴くことになり死を免れますが「難攻不落」と讃えられた秀吉自慢の大坂城も遂には落城して秀頼と淀殿は自害、豊臣家は滅びました。
慶長20年(1615年)、千姫様19歳の夏の初めのことでした。
※年齢は数え年

◇本多忠刻との再婚、桑名そして姫路へ
その後、千姫様は江戸へと戻り、翌年、本多忠刻と再婚します。
江戸への帰り道に千姫様の乗る船を指揮する忠刻に出会い、2人は互いを好きになったとも言われていますが、この結婚を契機に、本多家は桑名から姫路に領地を移し、千姫様も姫路城で暮らすこととなります。
一男一女を授かった姫路での暮らしは千姫様の生涯の中で最も幸せな時期と言われていますが、長男・幸千代と夫・忠刻が世を去ったことで、千姫様は一人娘の勝姫を連れて、再び江戸へ戻りました。

◇千姫様御年表
慶長2年(1597年):千姫様誕生(4月11日)
3年:豊臣秀吉死去、秀頼と婚約
5年:関ヶ原の戦
8年:徳川家康、江戸に幕府を開く(2月) 秀頼と結婚(7月)
10年:父・秀忠、2代将軍となる
19年:大坂冬の陣
20年:大坂夏の陣、豊臣家滅亡
元和2年(1616年):家康死去(4月) 本多忠刻と再婚(9月)
3年:本多家、姫路へ領地を移す
4年:長女勝姫誕生
5年:長男幸千代誕生
7年:幸千代死去
9年:家光、3代将軍となる
寛永3年(1626年):忠刻死去(5月)、母・江死去(9月) 江戸に戻り、弘経寺10世了学上人を戒師に落飾、天樹院を名のる(12月)
5年:勝姫、鳥取藩主池田光政と結婚
※寛永9年に岡山藩に領地を移す
6年:弘経寺本堂完成、扁額を寄贈
9年:秀忠死去
慶安4年(1651年):家光死去、家網4代将軍となる
承応3年(1654年):岡山藩で大洪水発生、救済資金として4万両の借用を計らう
寛文6年(1666年):天樹院(千姫)様死去(2月6日)

■千姫様を語り継ぐ
今回お話を伺った弘経寺主管の金田さんは、千姫様の生涯を「動く紙芝居」を使用して、わかりやすく後世に語り継ぐ活動をしています。

◇弘経寺との御縁の始まり
江戸に帰った千姫様は落飾(出家)して「天樹院」と名のり、江戸城北の丸で暮らすこととなります。
この落飾の戒師を務めたのが弘経寺の住職であった照誉了学上人で、天樹院(千姫)様と弘経寺の御縁の始まりとなりました。
寛永6年(1629年)には、本堂が天樹院様の意向を酌んで再建され、直筆と伝えられる寺号を記した扁額が寄贈されました。

◇徳川家を陰で支えた江戸での暮らし
天樹院様は女性の保護にも力を注ぎ「縁切寺」として知られる鎌倉東慶寺や満徳寺(群馬県太田市)を再建しています。
さらに勝姫が嫁いだ岡山藩で城下を水没させる大洪水が発生した際には、幕府を動かし、4万両の救済資金を用立てています。また、家光の第2子長松が産まれた際には、母代となるなど徳川家を陰で支える存在でもありました。

◇天樹院様と常総市とのつながり
江戸城に暮らす天樹院様は、当時としてはかなりの長命で寛文6年(1666年)に70歳の天寿を全うしました。
遺言に従えば、弘経寺にその墓が築かれるべきでありましたが、徳川家の先例に習い小石川の伝通院(東京都文京区)に埋葬されました。
弘経寺には落飾の際の髪を納めた墓が造られたと言い伝えられてきましたが、平成9年(1997年)の千姫様生誕400年を記念した墓所改修の際の調査で、遺骨の一部が埋葬されている事実が確認され、さらには平成22年(2010年)10月から翌年1月にかけて実施した弘経寺に残された位牌の調査では、所在が不明確になっていた初代家康から14代家茂までの歴代将軍の位牌の存在も、歴代住職の位牌と共に確認されました。
では、何故、弘経寺に歴代将軍の位牌が納められることになったのでしょうか。ここには、天樹院様の存在が大きく関わっていたと考えられます。
江戸幕府の公式記録である「徳川実記」には天樹院様が死去された後、江戸城北の丸にあったお住まいの竹橋御殿は解体され、弘経寺ほか3ヵ寺に与えられた記録が残ります。
また「弘経寺志」には天樹院様の崇敬した家康の神像を御殿と共に弘経寺に移すことになったという記録を見ることができます。
さらに父・秀忠、母・江、弟・家光の位牌も残りますが、他の歴代将軍位牌とは明らかに異なる全高1メートルを測る大型のもので、葵紋を散らした黒漆塗の厨子に納められています。
これらのことから推察すると、父母、弟より長命であった天樹院様の住まいの仏間には、御肉親の像や位牌が安贋され、天樹院様が日々手を合わせ、祈りを捧げていたと考えられます。
これらも天樹院様の没後に弘経寺に移り御霊屋とされ、天樹院様とその一族を供養する場として歴代将軍位牌も納められ、永く護持されてきたのです。
この位牌と袈裟などの御遺愛の品々、天樹院寿影(千姫姿絵)は今も弘経寺で大切にされています。

■現代も続く、千姫と常総市の繋がり
5月14日に第21回常総千姫まつりが開催され、時代衣装に身を包んだ観光大使千姫さまの優雅な姿に大勢の人が見入っただけでなく、歌や踊りなどのステージイベントが開催され、約12,000人の来場者が「常総千姫まつり」を楽しみました。

※詳しくは、本紙をご覧ください。

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