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常陸大宮市 文書館だより Vol.51

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茨城県常陸大宮市

◆刀匠 横山祐光

江戸時代の後半、水戸藩に一人の刀匠(とうしょう)が誕生しました。のちに子孫が下小川(しもおがわ)村(盛金)に住み、野鍛冶(のかじ)としてその伝統を受け継ぎました。

◇水戸藩の作刀と横山祐光
武士の持ち物としての刀は、武士の誕生当初に主力の武器であった弓矢から、戦の形態の変化に伴い、鎌倉時代末期以降、主力の武器となっていきます。打つ・突く・切るといった実用性のほか、魔除けの霊性や名物・名品としての希少性など様々な面が注目された武器のひとつでした。江戸時代になると、武士の精神の象徴として認識され、ブランド化した産地や工人集団がその技術を競いました。
水戸藩の鍛刀(たんとう)は、2代藩主光圀の時代に活躍した大村加卜(かぼく)と、美濃国の関鍛冶(現岐阜県関市を中心に興った鍛刀工人集団)の系譜をひく越前守吉門及び武蔵守吉門が水戸藩お抱えになったことから始まるといわれています(『銕の意匠』)。室町時代には、刀剣の二大産地として、「東の美濃(みの)、西の備前(びぜん)」とうたわれた備前国(現岡山県)は、新刀期(慶長~明和年間)に衰退し、江戸時代以後の水戸刀への影響も美濃鍛冶が優勢になっていきました。水戸藩の作刀は、以後、直江助政(1765-1834)、市毛徳鄰(1777-1835)、勝村徳勝(1809-1873)らの名工によってその系譜が受け継がれました。
9代藩主斉昭は、海防の重要性を説く中で武器製造にも力を入れ、安政4年(1857)、水戸城の西の白旗山に武器製造所を設け、銃砲・刀剣・甲冑の製造を開始しました。特に名刀を求めて、他国からも腕利きの工人を集めることに努めました。備前横山一門の横山祐光(すけみつ)は、このとき水戸藩に呼び寄せられたようです(『水戸藩史料』上編乾)。

◇横山祐光の墓碑から
昭和3年に建てられた横山祐光の墓碑及び昭和50年に作られた由緒書から、祐光の生涯をたどってみましょう。
祐光は、通称を喜十郎(一説に嘉十郎)と名乗り、田口権右衛門の三男として江戸青山に生まれました。成長し、刀鍛冶を志した喜十郎は、備前国(岡山県)長船村の横山一門に入門し、研鑽(さん)を積み、名も祐光と改めました。備前鍛冶横山一門には、ほかに祐永(すけなが)、祐包(すけかね)らの名工が知られており、「祐」の通字は確かにこの一門であることを示しています。
祐光は陸奥国から常陸国を遊歴した際に、水戸城下で刀鍛冶の勝村彦六(徳勝)と出会い、その作刀を助けた、とされています。その出来栄えはすばらしく、藩主斉昭に認められ、藩のお抱えとなったといわれています。万延元年(1860)の水戸藩士とその職名を列記した「規式帳」には「留附列 列凾人 横山喜十郎」と記され、工人として藩士に列せられていることがわかります(「凾人」は鎧などの細工人の意)。祐光は明治6年、病により白旗山下の八幡(現水戸市八幡町)の居宅で没しました。遺骸は大塚(同大塚町)に埋葬されましたが、昭和3年、子の祐矩(すけきょ)により、下小川村に分骨し、墓碑が建立されました。
祐光の子孫たちは鍛冶の技術を継承し、山仕事や畑仕事で使用する鉄製の農具や道具を、伝統的な材料と製法により、手作業で作り出しました。最後の野鍛治となった祐弘(すけひろ)(1921-2015)は、当地の特産の和紙の原料となる楮を刈り取る鎌や、楮の外皮から白皮を削り取る小包丁など、作業の特質に合わせた仕様の道具を作り、当地の人々の生業に欠かせないものとして重宝されました。

横山祐弘の野鍛冶道具は歴史民俗資料館に寄贈されました。
横山隆文さん、大山富彌さんにご協力をいただきました。
(高村恵美)

参考文献:『水戸藩史料』上編乾 吉川弘文館 1970、茨城県立歴史館編『銕の意匠—水戸刀と刀装具の名品—』1996、飯村嘉章『刀剣要覧』刀剣美術工芸社 1986、高橋昌明『武士の日本史』岩波書店 2018

問い合わせ:文書館
【電話】52-0571

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