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常陸大宮市 文書館だより Vol.54

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茨城県常陸大宮市

◆了誉聖冏(りょうよしょうげい)の事績に関する書状

「ろくやさん」として知られる了誉聖冏(りょうよしょうげい)は、南北朝~室町時代前期にかけて活躍した浄土宗(じょうどしゅう)の僧です。浄土宗の教学や組織体系を整備し、地位向上に努めたことから、浄土宗中興の祖として崇(あが)められており、旧暦9月26日には、聖冏ゆかりの寺院である誕生寺(たんじょうじ)(上岩瀬地区)・常福寺(じょうふくじ)(那珂市瓜連)で法要が執り行われるなど、その業績は今なお語り継がれています。当市でも、600回忌である令和元年(2019)に記念シンポジウムや企画展示を開催するなど、聖冏の足跡や文化財について触れてきました。今回は、当館に寄託された文書の中から、聖冏にまつわる資料を紹介します。

◇書状の内容について
今回紹介する書状は、了誉聖冏の事績について尋(たず)ねる文書への返答として書かれたものです。内容については、主に聖冏の出自や半生、誕生寺成立の由来などが記されています。このうち、出自および半生については、暦応(りゃくおう)4年(1338)に岩瀬城(現在の誕生寺境内)の城主「白吉(しらよし)(白石(しらいし))志摩守義光(しまのかみよしみつ)」の子として生まれたこと、南北朝の戦乱で父親が戦死してしまい、母親・弟と共に逃げる途中で常福寺に捨てられ、同寺の開祖である了実上人(りょうじつしょうにん)に拾われて弟子となり、浄土宗の教えを学んだこと、香仙寺(こうせんじ)(常陸太田市松栄町)の岩穴(直牒洞(じきてつどう))で著作活動に勤しむ際、眉間から三日月形の光を発したことから「三日月上人(みかづきしょうにん)」と呼ばれたこと、江戸小石川に「宗慶寺」(寿経寺(じゅけいじ)、後の伝通院(でんつういん))を開山したことが記されています。現在の通説では、聖冏は父親の冥福を祈るために出家して常福寺へ入ったとされていますが、江戸時代の常陸国内で聖冏の伝承がどのように伝わっていたのかを知ることができるという点で貴重な資料です。

◇書状が書かれた背景
では、この書状はどのような目的で作成されたのでしょうか。作成年は未記載ですが、文中に「当年了誉の四百年忌至り」とあることから、聖冏の没後400年にあたる文政(ぶんせい)2年(1819)に記されたことがわかります。また、差出・宛先ともに不明ですが、本資料が「水府志料(すいふしりょう)」大里組(おおさとぐみ)(久慈川以東の常陸大宮市・常陸太田市域)の下書き原稿の中から発見されていることから、「水府志料」編者である小宮山楓軒(こみやまふうけん)や彼の弟で大里組奉行を務めた入江忠八郎(いりえちゅうはちろう)の関与が想定されます。おそらくですが、聖冏の400回忌にあたり、地誌調査の一環として、生誕地である岩瀬周辺の伝承を調べ、回答するために記された書状ではないでしょうか。江戸時代、聖冏の教えは浄土宗の中心とされるほど著名であり、また数多くの逸話が作られるなど、庶民をはじめ多くの人々に親しまれました。本資料からは、出身地である常陸大宮周辺で聖冏が広く信仰を集めていた一端をうかがうことができます。

11月11日(土)、12日(日)に開催される集中曝涼(ばくりょう)では、新たな公開場所として誕生寺・法専寺(ほうせんじ)・常弘寺(じょうこうじ)が追加されます。誕生寺では了誉聖冏にまつわる文化財が公開される予定です。ぜひお立ち寄りください。

参考文献:
・吉成英文「了誉上人と直牒洞」(『フォンズ』87)令和元年
・常陸大宮市文書館編『企画展没後600年佐竹一族に生まれた高僧三日月上人了誉聖冏』令和元年
・高村恵美「大山家文書「某書状」-了誉聖冏の事績を尋ねる書状」(『常陸大宮市文書館報第6号』)令和2年
・常陸大宮市史編さん委員会編『常陸大宮市史資料編2古代・中世』令和5年
(髙橋拓也)

問い合わせ:文書館
【電話】52-0571

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