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常陸大宮 市史 編さんだより vol.88

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茨城県常陸大宮市

◆明治の戸長は大忙し!
常陸大宮市史では、2023年、常陸大宮市史資料叢書として『上伊勢畑村御用留』を刊行しました。この資料集は、上伊勢畑区有文書(常陸大宮市文書館寄託)に伝わる、江戸時代の公用記録「御用留」(文政元年~明治5年)を全文翻刻したものです。

同じ区有文書のなかに、明治6年(1873)の「御触留」と題された帳面があります。この帳面は、上伊勢畑村の戸長を勤めた、宮下作兵衛が作成したものとみられます。戸長とは、明治5年(1872)に大区小区制という新たな行政制度が定められたことにともなって、これまでの庄屋に代わり、小区を治める長として設置された役職です。
「御触留」には、明治6年2月から4月にかけて、茨城県が発した布告や通達の類いが書き留められており、その数は85件に上ります。そのうち、戸長に「~すべし」と何らかの業務を指示しているものは、45件を数えます。業務の内容は、通達内容の周知のほか、区内の実態調査や住民からの願・届の取りまとめなど、多岐にわたります。
業務を指示する通達のなかには、回答・提出期限が設定されているものが多く見られます。それらを分析すると、通達が発せられてから戸長が対応に費やすことができた日数は、平均して10日間ほど。短いものでは、わずか2日間での対応が求められました。しかも、同じ時期に複数の業務が重なることも少なくありませんでした。
通達のなかには、定めた期限になっても戸長からの回答・提出がないことについて、県が注意する表現も散見されます。しかし、「御触留」に書き留められた内容からは、矢継ぎ早に舞い込んでくる県からの業務指示に忙殺され、対応が追いつかない戸長の姿が浮かび上がってきます。
「御触留」のほかにも、戸長が作成した記録には、住民からの願や届を書き留めた帳面が残されています。これらを合わせて読み解くことで、明治初期の地域の実情が垣間見えてくることでしょう。

近現代史部会 協力員
法政大学大学院兼任講師
淺井 良亮

問い合わせ:文化スポーツ課 文化振興グループ
【電話】52-1111(内線343)

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