◆石沢の廃寺 西竜寺
◇西竜寺の創立と歴史
白鳥山西竜寺(はくちょうさんさいりゅうじ)は、石沢字荒神前に所在した真言宗(しんごんしゅう)の寺院です。常弘寺(じょうこうじ)から北西に約500m離れた台地の南端部が寺院跡とされており、江戸時代の村絵図には本堂などの建物をはじめ、参道や山門、大木1本が描かれていますが、現在は森林が広がっており、往時の面影を伝える物は残されておりません。天保(てんぽう)2年(1831)に石沢村庄屋長介らが作成した書類(当館蔵)によると、西竜寺は宝金剛院(ほうこんごういん)(常陸太田市島町)の末寺で、元禄(げんろく)3年(1690)に安食村(あんじきむら)(現かすみがうら市安食)から当地へ移転してきたことが由来として記されるほか、境内には稲荷宮と清瀧権現(せいりゅうごんげん)という2社を祭っていたことが確認されています。廃寺となった時期については不明ですが、安政(あんせい)3年(1856)の「御領内諸寺院蓮名帳(ごりょうないしょじいんれんめいちょう)」(当館蔵)に西竜寺の項目が記されていることから、幕末の頃までは寺院が存続していたことがうかがえます。
◇西竜寺の住職引き継ぎ
西竜寺の詳細を伝える古文書は少ないですが、天保8年(1837)に作成された「西龍寺入院式留(さいりゅうじにゅういんしきどめ)」(当館蔵)に僅かながら当時の記録が残されています。これは、先代住職の死去により無住となっていた西竜寺に新たな住職が入る様子を記録したものであり、密蔵院(みつぞういん)(山方地区)の僧である恵厳(えげん)が寺社奉行から命じられ、西竜寺に入ったことが記されています。なお、寺院の引渡しには恵厳の代理として宝蔵院(ほうぞういん)(下岩瀬地区、現在は五大尊堂)の僧が出席し、仏像や仏具などの什物(じゅうもつ)については恵厳本人の立会いの下で引継ぎが行われました。この時の什物目録によると、本尊である十一面観音像や弘法大師像、十王図などの存在が確認できるほか、過去帳を2冊所蔵していたことが記されています。また、寺院の引渡しに際しては、世話役だけでなく、石沢村の庄屋(しょうや)・組頭(くみがしら)など村役人も多数出席しており、式中には酒と料理が振る舞われました。檀家制度(だんかせいど)によって宗教が人々の生活と密接に関わる江戸時代において、寺院の存在が地域の中でいかに重要だったのか、その一端がうかがえます。
(髙橋拓也)
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