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水戸の城さんぽ其の七

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茨城県水戸市 クリエイティブ・コモンズ

■飯富長塁(いいとみちょうるい)~江戸氏攻防の跡~
城館は、山や丘陵を堀や土塁で切り盛りし、要塞(ようさい)化していくのが普通です。一方、土塁や堀を単独で築く「長塁(ちょうるい)」と呼ばれる城館関連遺構も存在します。
長塁は、堀と土塁が数10m~数kmにわたって延びるシンプルな構造で、高さは2~4mが一般的です。
構築の目的は、街道を塞(ふさ)ぐためとか、城館を守るためという説がありますが、はっきり分かっていません。県内で確認されている長塁は約60例で、全体の城館数の約5%。他県ではもっと少なく、茨城県内において特徴的な遺構と言われています。
そんな長塁の代表例の一つが、今回紹介する飯富長塁です。飯富長塁の高さは約4m、長さは約600mにもなります。また、長塁は一重の堀と土塁が多いのに対し、飯富長塁は三重と堅固なつくりになっているのも特色です。
飯富長塁のある丘陵は、中世には大部平(おおぶだいら)と呼ばれ、江戸氏の中心領域である中妻三十三郷(なかつまさんじゅうさんごう)の一部でした。江戸氏は中妻三十三郷の支配に力を注いでいたため、この領域内での合戦の記録はほとんど確認されていません。しかし、実は、大部平のみ2回も合戦の舞台になっているのです。そしてそれは、江戸氏の歴史の中でも重要な合戦でした。
1回目は天文(てんぶん)17(1548)年の大部平の戦い。佐竹氏と江戸氏が争い、佐竹氏が勝利した「天文の乱」の中で起きた合戦です。この乱で江戸氏は佐竹氏への従属(じゅうぞく)が決定的になりました
2回目は天正(てんしょう)16(1588)年の神生(かのう)の乱です。これは江戸氏の内乱でしたが、やがて拡大。現在の東海村や那珂市の一部を支配していた小野崎氏をはじめ、佐竹氏や伊達政宗が関わる、大規模な争乱に発展しました。
飯富長塁は、いつ、誰が、何のために築いたのかは謎ですが、こうした歴史から、謎が少しずつ解けてきます。つまり飯富長塁は、大部平の戦い・神生の乱のいずれかの時期に、敵の攻撃を防ぐための防塁(ぼうるい)として、急きょ築かれた可能性が高いのです。
また、飯富長塁は北側が攻め手、南側が守り手という構造になっています。飯富長塁の南方には、古社の大おおい井神社が鎮座(ちんざ)していますので、合戦から神社を守る意図があったのかもしれません。しかし神社は神生の乱で焼失したと伝わっていますから、敵は飯富長塁を越えたことになり、攻撃を防ぎきれなかった可能性があります。
このように飯富長塁は、長塁という全国的にも珍しい遺構であるとともに、江戸氏が注力した中妻三十三郷内における、数少ない合戦の舞台となった、貴重な城館関連遺構といえるのです。
歴史文化財課 関口慶久

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