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水戸の城さんぽ其の八

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茨城県水戸市 クリエイティブ・コモンズ

■全隈城(またぐまじょう)~村の城~
今回は村人が築いた城を紹介するでござる!
住所:水戸市全隈町
城は、地域を支配した領主(武士)が築城したもの―というイメージがあります。しかし中世の城(特に山城)を歩いていると「構造が簡単すぎる」「築かれた場所が交通の要所でもなく、攻めるにも守るにも不便」というように、領主が築いたにしては、構造や場所が不自然に感じる城があります。
このような城は、誰が何のために築いたのでしょうか。そんな疑問に対し、歴史学者で『水戸市史』の執筆者でもある藤木久志(ふじきひさし)さんは、今から30年ほど前に「村の城」という考え方を発表し、歴史学界に大きな衝撃をもたらしました。「村の城」とは、村人が築いた城のこと。藤木さんは古文書などの分析をとおして、民衆が戦争から身を守るため、近くの山中に「小屋」などと呼ばれる簡単な城を作って避難していたことを証明しました。城は武士だけでなく民衆も築いていたのです。
では、水戸に「村の城」はあるのでしょうか。今年3月に県教育委員会が発行した『茨城県の中世城館』には、市内で唯一「村の城」の可能性があるとされた城が掲載されています。それが今回紹介する全隈城です。
全隈城は、鶏足山塊(けいそくさんかい)から伸びる細長い尾根の上に築かれています。区画(曲輪)は西から本丸、二の丸、三の丸に分かれ、各曲輪(くるわ)の間には空堀があります。堀の深さは2~3m程度。傾斜が緩いため簡単に乗り越えられます。曲輪の内部は細長い平場になっていて、建物の遺構はありません。例えるならば、長さ約100m×幅約20mの、鉄道のプラットホームのような細長い平坦地が、東西方向に3か所連なっているようなイメージです。「村の城」と呼ぶにふさわしい、とても簡素な構造といえます。
城の南側には全隈の集落が広がっています。この集落はかつての全隈村で、戦国時代にも記録がある村です。中世の全隈村は江戸氏の領域内にあり、江戸氏側近の小祝(こいわい)氏が領主だったことを示す記録が残っています。小祝氏がどのような一族だったのかは分かっていませんが、側近として普段は江戸氏当主のそば近くに仕えていたため、領地である全隈村は、村の自治に任せていた可能性が高いと考えられます。
また、全隈村の北方約500m先は佐竹氏と江戸氏の領域の境目でした。佐竹氏が侵攻する可能性もある土地です。領主の城があればそこを避難所にすればよいのですが、全隈村にはそのような城の存在は確認されていません。そのため村人たちは自力で城を築き、佐竹氏の侵攻に備えたのでしょう。
結果として佐竹氏は全隈方面には侵攻せず、城は使用されずに済んだと思われます。しかし、いつの時代も危機管理は大切。全隈城は、そんな中世の危機管理のあり方を示す城といえるのです。
歴史文化財課 関口慶久

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