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水戸の城散歩其の三

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茨城県水戸市 クリエイティブ・コモンズ

■吉田城と大鋸町遺跡~双子の城の謎~
水戸の中世は、平安時代末期に市東部一帯を支配していた土豪(どごう)、吉田氏にはじまります。吉田氏は常陸平氏(ひたちへいし)の一族で、その分家であった馬場資幹(ばばすけとも)は源頼朝の信任を得て出世を重ね、常陸平氏の当主となって大掾(だいじょう)を名乗り、水戸城を築城しました。
この吉田氏が居城としていたと伝わるのが吉田城(元吉田町)です。吉田城は半島状に突き出た台地上に位置し、水戸城と向かい合う位置関係でした。台地の下には那珂川・桜川などの重要河川や、常陸各地につながる複数の街道が広がっていました。鎌倉時代の吉田氏一族の繁栄は、水陸の要所を押さえたことが背景にあると考えられます。
吉田・大掾氏は、室町時代前期に江戸氏に攻め入られて水戸の支配を明け渡しました。この時、吉田城も江戸氏の支配下に置かれ、水戸城の支城になったと思われます。現在の吉田城の遺構は、江戸氏が支配していた戦国時代に構築されたものです。規模は南北約450m、東西約170m。市内の城館の中では水戸城、河和田城、武熊城(東台1)、長者山城(渡里町)に次ぐ5番目に大きい城です。現在の常照寺本堂がある曲輪(くるわ)(平場)が本丸で、その周囲に大小さまざまな曲輪が付属しています。城内には土塁や空堀がめぐらされ、戦国時代の城の雰囲気を楽しめます。
さて、吉田城は単独の城とされていましたが、平成19年に新発見がありました。城の西隣の台地上に広がる大鋸町遺跡(元吉田町)の発掘調査で、二重に連なる中世の堀と土塁が発見され、同遺跡内にも城館跡が存在することが判明したのです。大鋸町遺跡の城館の推定範囲は南北210m、東西360mと、吉田城とほぼ同規模で、出土遺物の年代もほぼ一緒です。つまり、吉田城と大鋸町遺跡は東西に隣り合う「双子の城」だった可能性が高まったのです。
二つの城の距離はわずか60m。なぜこんな短距離に双子の城があるのでしょうか。確かな理由は不明ですが、両城の間にある街道がヒントになります。吉田城と大鋸町遺跡の間には、古道が南北に走っており、その道は水戸城から吉田城の城下町とされる古宿(ふるじゅく)を経て、現在の茨城町方面につながる重要街道の一つと考えられます。こうしたことから、両城は水戸城の支城としての役割とともに、重要街道とその周囲の町を守る役割を担っていた──というのが最新の見解です。
近年、中世の水戸の調査研究は日進月歩で進んでおり、双子の城という不思議な城の謎が解明される日も近いかもしれません。
歴史文化財課 関口慶久

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