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今回は城の「育ち方」を紹介するでござる!
■田谷白石台(たやしらいしだい)城~成長する城~
城は築城されてから、何十年もそのままということはほぼありません。常に改修を繰返し、成長していきます。つまり、現在、目にすることができる縄張(なわばり)(遺構)は、長い年月をかけて育ってきた城の最終形態なのです。では、築城当時の姿はというと、それを解明するのはとても難しいとされています。
田谷白石台城(田谷町)は、そんな城の育ち方という難題が解明された、市内唯一の事例です。
田谷白石台城は、佐竹氏一族の白石氏の居城であると伝わる平城です。実態は長らく不明でしたが、城跡に浄水場を建設することがきっかけになり、平成2~3年に発掘調査が行われました。調査範囲は城まるごと。城の全面発掘は、現在でもなかなか例がありません。
発掘調査の結果、4時期の城の変遷(左図の(1)~(4))が明らかになりました。鎌倉時代に誕生した田谷白石台城は、深さわずか20cmと、簡単にまたげる溝に囲まれた、80m四方の規模(1)でした。農村開発のための館であったと推定されています。
ところがその後、様相が一変します。室町時代には110m四方(3)に、最終段階の戦国時代には165m四方(4)にまで急速に成長していくのです。容易に城内に入れないよう、堀も深さ3m、幅7mと、大規模化するとともに、内側には高さ1m超の土塁が巡らされました。築城時はのびやかな「館」だったのが、最終段階では戦闘を目的とした、ものものしい「城」に変化していったことが判明したのです。
戦国時代の水戸では、佐竹氏と江戸氏が対立している状況でした。館から城への変化は、こうした軍事対立を反映したものと考えられています。田谷白石台城は現存していませんが、城の成長過程を実証した、貴重な学術的成果として全国的に知られています。
歴史文化財課 関口慶久
住所:水戸市田谷町
茨城県教育財団が発掘(遺跡名は白石遺跡)。正方形に巡る堀がくっきりと検出されました。現在は、県中央水道事務所(水戸浄水場)となり遺構は現存していませんが、入口付近に国田歴史学習会が設置した説明看板(白石城跡)が立っています。
※図は本紙をご覧ください。
問合せ:歴史文化財課
【電話】306-8132
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