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水戸の城さんぽ 其の五

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茨城県水戸市 クリエイティブ・コモンズ

■河和田城(かわだじょう)~江戸氏を支えた水の城~
住所:水戸市河和田町
河和田城は建武4(1337)年、水戸城主・大掾(だいじょう)氏の家臣、鍛冶弾正貞国(かじだんじょうさだくに)が築城したと伝えられています。当時の河和田地区は大掾氏の支配下でしたが、南北朝時代の終わり頃、江戸郷(那珂市下江戸)の土豪(どごう)・江戸通景(えどみちかげ)が佐竹氏家臣となって頭角を現し、河和田城は江戸氏の居城となります。
その後、江戸氏は、応永33(1426)年に大掾氏を攻略して新たな水戸城主となり、河和田城は家臣の春秋(はるあき)氏が統治します。さらに江戸氏は佐竹氏一門と同等の身分となるなど、常陸国内でも有数の領主にまで出世しました。なぜ、小地域の土豪だった江戸氏が、ここまで急速に成長できたのでしょうか。その理由の一つとして、河和田城の存在があったと考えられています。
河和田城は、東西約900m、南北約900mに広がり、市内では水戸城に次いで第2位の敷地面積です。城の特徴として知られているのが、最大5重にもなる土塁と堀です。現在も河和田小学校や報仏寺(ほうぶつじ)をはじめ、いたる所に土塁と堀が残り、その存在感から河和田城は「堀と土塁が張り巡らされた堅固な城塞(じょうさい)」というイメージが先行しがちでした。
しかし、河和田城の特徴は堅固なだけではありません。そのポイントは「水」です。上の縄張図を見ると、まるで湖の中に、城の曲輪(くるわ)や土塁が島のように浮いているように見えませんか。こうした城は「水城」「浮城(うきじろ)」などと呼ばれ、水の利を生かし、城を水運の拠点として利用していました。河和田城も幅約30mの湿地帯が城の真ん中を南北に縦断していて、城のすぐ北側に流れる桜川から船で乗り付けることも可能だったと思われます。つまり、河和田城は「防御」という閉じられた性格とともに、「水運」という開かれた性格も持ち合わせていた可能性が高いのです。こうした大規模な水城は、市内では河和田城しか確認できません。
さらに注目すべきは、江戸氏領国内の河和田城の位置です。江戸氏の財政基盤は、中妻三十三郷(なかづまさんじゅうさんごう)と呼ばれる広大な穀倉地帯(現在の飯富・双葉台・内原中学校区周辺)からの年貢でした。中妻三十三郷と水戸城は桜川で結ばれ、河和田城はその中間に位置していました。そのため、河和田城は、中妻三十三郷でとれた物資を水戸城に運ぶ中継拠点としての役割を担い、江戸氏の躍進を支えたと考えられるのです。
物資が集まるところには人もお金も集まります。城の大手(正面)とされる八坂神社前の発掘調査では、町場があったことが判明。城だけでなくその周囲も賑わっていたことがうかがえます。
このように河和田城は、水城としての利点を生かして江戸氏の発展に貢献し、中世の水戸に存在感を示したのです。
歴史文化財課 関口慶久

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