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水戸の城さんぽ 其の六

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茨城県水戸市 クリエイティブ・コモンズ

今回は低地に築かれた城館を紹介するでござる!

■平戸館(ひらとやかた)~標高3mの低地城館~
住所:水戸市平戸町
城館は、山や台地など、敵の進軍を見渡せるような高い所に築かれるのが一般的です。ところが中には、低地に築かれた城館も存在します。今回紹介する平戸館は、そんな低地城館の市内における代表例です。
平戸館は、涸沼川河口近くの沖積低地(ちゅうせきていち)に築かれた中世城館です。微高地上に立地してはいますが、その標高は3m。土塁も1m強ほどの高さしかなく、とても敵を迎え撃つのに向いている構造とは言えません。
なぜこのような場所に城館が築かれたのでしょうか。実は、平戸館がある平戸町一帯は、古代には「平津駅家(ひらつのうまや)」という、官道沿いに整備された公営の交通施設があったとされています。人や物資はここで船に乗り換え、太平洋に出て陸奥(むつ)に向かいました。古代の平戸は、海に開かれた水陸交通の要所として栄えていたのです。中世になって城館を築くにあたり、駅家(うまや)やその周辺が整備されていた平戸の地は魅力的だったに違いありません。防御機能の弱さというデメリットを差引いても、支配拠点としてのメリットが大きかったため、ここに城館が築かれたのでしょう。
現在の平戸館は、土地区画整理によって、その遺構が大幅に失われていますが、往時は約40~50m四方の方形の城館で、周囲には堀や土塁が巡らされていたと考えられます。県内によくあるタイプの平城(ひらじろ)ですが、ここまで低地に築いた例は、ほんの一握りしかありません。
平戸館を築いた人物は、平安時代の終わり頃から常澄地方一帯(恒冨郷(つねとみのごう))を治めた平戸(石川)氏です。平戸氏は水戸城主である大掾(だいじょう)氏の一族で、水陸交通の要所と豊かな田園地帯を支配下に置き、小規模ながら安定した地域支配を行いました。
中世の関東は、武士団の勢力図がめまぐるしく変化しますが、平戸氏はそうした変化に柔軟に対応し、北条氏、江戸氏など、時の実力者に仕官(しかん)先を変えながら激動の世を生き抜きました。巧みな処世術のお陰なのでしょうか、平戸館は一度も戦乱の舞台になることはなく、また城主が交代することもありませんでした。「統治に主眼を置いた低地城館」という性格をいかんなく発揮し、佐竹氏が水戸を支配した安土桃山時代に、その役割を終えます。
なお、平戸氏はその後も百姓になって平戸の地に住み、後に水戸藩士に取立てられ、明治維新を迎えました。
歴史文化財課 関口慶久

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