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かさまのれきし第74回

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茨城県笠間市

■絵図からみる笠間城下の桝形
笠間市立笠間小学校正門北一帯に桝形(ますがた)と呼ばれる地名が残っています。
桝形とは、文字どおり穀物を計量する桝のような四角の形を指す言葉ですが、城郭においては、城の出入口となる虎口に設けた敵兵の城内侵攻を防ぐために、石垣・土塁などで囲んだ防禦(ぼうぎょ)施設です。この桝形を笠間の絵図から見てみましょう。
現存する最も古い笠間城下の絵図として「常陸国笠間之城絵図」(以下「笠間の城絵図」と略)があります。この絵図は、正保(しょうほう)年間(一六四四~一六四八)に江戸幕府が諸大名に命じて「郷帳」(検地帳)と共に作成提出させた「正保城絵図」と呼ばれる絵図の一つです。「正保城絵図」は、幕府が諸藩の山川、城下を正確に把握するため、また各藩は城と城下町の姿など軍事的機密事項を包み隠さず表すことで、幕府への恭順の意を示したもので、一五七点の絵図があったとされています。幕府はこれらを江戸城内の紅葉山(もみじやま)文庫に、のちに明治政府が内閣文庫に収め、そして現在、国立公文書館に六十三点の絵図が国指定重要文化財として保管されています。「笠間の城絵図」は、正保二年(一六四五)、藩主井上正利の入封間もない時期の提出でした。笠間城下は前藩主浅野長直の治世に城下町としての構造が完成したと考えられます。
「笠間の城絵図」には、幕府の指示通り建造物、堀の深さ、曲輪(くるわ)の広さまで描かれています。笠間城内では、天守曲輪の二層の天守櫓(やぐら)、本丸の隅櫓(すみやぐら)、物見櫓(ものみやぐら)(八幡台櫓と宍ヶ崎櫓)など、また門に関しては天守曲輪入口門をはじめ、大手門、的場丸門、黒門など十三の門が描かれています。天守曲輪、本丸、二の曲輪、帯曲輪(おびくるわ)の全周は塀が巡らされ、大手門の周辺では桝形のような空間が構築されています。一方、城下をみると、家臣団屋敷は、上級家臣の侍屋敷、そして中下級家臣の侍町や足軽町、町人町は本町(のちの大町)・新町・愛宕町・高橋町・高橋新町(のちの荒町)などの町割りが整備されています。高橋川・福田川(現在の涸沼川)の川幅、深さ、蒲生郷成の造成と伝えられる用水路なども詳しく記されています。そして街道には宍戸通(江戸道)の宍戸口、真壁通(真壁通江戸道)の高橋口、小貫(おぬき)通(宇都宮街道)の小貫口、万福寺通(水戸街道)の愛宕町口、といった城下への入り口に土塁に囲まれた桝形が描かれ、山居(さんきょ)経由の水戸街道入り口である現在「桝形」と呼ばれる大町と大和田の接点は、同絵図では一般的な方形ではなく変形した土塁です。また坂尾口には食い違い虎口を築いています。そして桝形とともに城下の北方から西方を巻くように南流する涸沼川を城下の防禦に活用していたと考えられます。
こうして同絵図を見ていくと笠間の桝形は、城の防禦にとどまらず城下全体の防禦として機能していました。現在、私たちが利用する道で、ここは曲がっていて通行しにくいと感じるところが過去には桝形として、街道を屈曲させ敵を真っ直ぐに侵入させない工夫がなされた場所であったのです。何気ない通りからも、城下町笠間を実感することができる歴史ある街です。
市史研究員 松山京子(まつやまきょうこ)

問合せ:生涯学習課
【電話】内線382

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