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かさまのれきし

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茨城県笠間市

■第73回笠間示現流剣法と村上家
櫻花を愛(め)でる言葉に「西に吉野、東に磯部」と言う言葉がありますが、剣についても「西に柳川、東に笠間」と謳われた笠間の剣、示現流(じげんりゅう)がありました。示現流の稽古は、粗朶木(そだき)を二〇~三〇センチメートル位の太さに束ねたものを両支柱で支え、それを木刀に見立てた堅い丸太で、叩いて叩いて叩きまくります。初めは手が痺れて痛いですが、稽古を積むうちに手首が締まって、割り箸を鉈(なた)で叩き割る如く破壊力を生む、初太刀で相手を倒す気力体力を養う剣法です。示現流は薩摩固有の剣法で藩のお家流儀と云われていますが、奇しくも常陸国笠間に端を発しているとも云われています。その概要を記してみます(村上義博著『笠間示現流剣法』と『笠間市史』を参考としました)。
戦国時代末のころ、笠間の郷士(郷村在住の武士)土瀬(ととせ)長宗が飯篠長威斎(いいざさちょういさい)家直を流祖とする天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)を学び、これに工夫を加え「天真正自顕流(てんしんしょうじげんりゅう)」と称しました。その後常陸国の住人金子新九郎、同国住人赤坂弥九郎、更に薩摩の武士東郷藤兵衛重位(しげかた)に伝わり、重位は剣法に工夫を凝らし「示現流」と称しました。後に島津家の御家流として代々続くことになりました。
江戸時代の中期、日向国延岡で示現流を学び免許皆伝を得ていた村上義知(よしとも)が道場を開いていました。延岡藩牧野家では義知の力量を知り、藩の剣術指南役にしようとしましたが、義知が前に仕えていた佐土原藩(さどわらはん)との関係からそれが出来ないことを知り、そこで義知の子で当時十歳の義明を採用し、父から稽古を受け、後に藩の指南役になるよう申し渡し、義知は子義明の後見人として指導に当たることになりました。村上義明は成人して藩の指南役となり、三十三歳のとき藩主牧野貞通の笠間転封に従い、笠間の地に移りました。ここに笠間藩示現流が始まったのです。村上義明・義白・義端(よしただ)(亘(わたる)は義端の呼び名)・義衛(よしえい)(父義端の呼び名である亘を継ぐ)・義治(よしはる)と五代にわたり村上家は笠間藩示現流指南を務めました。
文化十四年(一八一七)に藩校時習館が発足し、ここで武術の指導も行われたとみられます。文政九年(一八二六)には独立した武術稽古場「講武館」が設けられ、更に安政六年(一八五九)現在の笠間小学校敷地一帯に、時習館(文)・講武館(武)・博采館(医)を統合した時習館が開館しました。
特に義衛(亘)は、講武館、時習館、砲術師範・館長等の要職を担い各方面で活躍しました。亘が指導した門弟は、天保期から慶応期までに一九四名にのぼり笠間藩示現流の底辺を広げました。弘化二年(一八四五)に剣術を熱心に指導したので藩主より紋付(もんつき)と麻裃(あさかみしも)を授かりました。明治十三年(一八八〇)七十五歳で没し、鳳台院の墓地に埋葬されました。
市史研究員 松本兼房(まつもとかねふさ)

問合せ:生涯学習課
【電話】内線382

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