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かさまのれきし第80回

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茨城県笠間市

■岩間愛宕山の女人(にょにん)禁制
岩間地区のシンボルでもある愛宕山は、関東平野の北東端に位置し、標高三・五メートルとあまり高くない山です。京都の愛宕山の分霊を勧請(かんじょう)し、火伏せの神社として常陸国内で広く信仰されました。山頂からの眺望は素晴らしく、自然も文化も盛りだくさんの山です。この山頂には愛宕神社が鎮座し、特に平安時代より神仏混交の山として信仰され、修験者の修行の場としても繁栄しました。修験者であったとされる天狗の人間離れした修行の様子が、地元の村々に伝え話として残っています。愛宕山は修験者の修行の妨げになるとして、女人の入山は禁止されていました。
江戸時代になると愛宕宮を支配していたのは、山麓にあった別当寺愛宕山勝軍寺密蔵院(しょうぐんじみつぞういん)という真言宗の寺でした。岩間下郷不動院の末寺ですが、瓦谷(かわらや)村(現石岡市)の雲照寺の末寺にあたり、引退した僧が隠居する寺だったことがうかがえます。創建等は不明ですが、寛文五年(一六六五)「泉村検地帖(いずみむらけんちちょう)」(菅谷家文書)に「愛宕領密蔵院」と書かれています。境内が一町歩ほどあり、本堂、護摩堂、小天狗社などが建ち、今でも正面と思われる場所には黒門があり、周囲は江戸初期の土塁が回され、歴代の住職の墓塔が多数現存しています。この密蔵院の僧侶は、江戸幕府の宗教政策に対応しつつ中世武家による戦勝祈願から庶民のための火伏の信仰へと変化していきました。
当山が、女人禁制の山であることの証に愛宕神社拝殿前の長い階段(百カギ)の登り口に「女人禁制」と刻まれた結界石が建っています。また、そこから西側の女坂といわれる緩やかな石段途中にも「女人禁制」の石柱があり、ここから境内へ女人の入山は禁止されていました。享保八年(一七二三)密蔵院の海永(かいえい)和尚は、この現状を憂いて密蔵院のそばに女人堂を建立し、女人も参詣ができるように計らいました。同十年四月十八日から三日間に亘って入仏式が行われた記録が残っています。「女人堂入仏覚」(松崎家文書)によると、初日は本尊(観音像)、二日目は伍代尊(不動明王、降三世(ごうざんぜ)明王、軍荼利(ぐんだり)明王、大威徳(だいいとく)明王、金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王)、三日目は大般若経を女人堂へ納めています。導師は本寺不動院で、他に三十ヶ寺の僧が参列しました。お供は庄屋以下男女二百人余、庄屋他五人は大小の刀、または脇差を帯び、長百姓(おさひゃくしょう)は羽織・袴に威儀を正してお供しました。この祭礼は、見せ物二軒、酒売り三十軒、小間物八十軒、うどん屋五軒、菓子屋二十軒と大変な賑わいだったようです。その百年後、文政十年(一八二七)の土浦藩土屋家旧蔵の「愛宕山絵図」には「女人だう」と描かれています。今ではその跡地は確定できませんが、愛宕山登り口道路参り坂十字路の右端に「右あたご左女人堂」の道標が残っています。この十字路を南へ進み一キロメートルほど行くと密蔵院跡に至ります。きっと古地図が示すように密蔵院隣に女人堂が、存在していたに違いありません。
慶応四年(一八六八)新政府が神仏分離令を発し、明治二年(一八六九)に愛宕大権現から愛宕神社となり密蔵院は廃寺、同五年には修験道も廃止されて誰もがいつでも参拝できるようになりました。女人堂創建から三百年余り、麓の村々を見守り続けた愛宕山、今年リニューアルされたあたご天狗の森公園を改めて満喫しましょう。
笠間市史研究員 川﨑史子(かわさきふみこ)

問合せ:生涯学習課
【電話】内線382

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