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かさまのれきし

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茨城県笠間市

■第81回片庭西福寺(さいふくじ)の両界曼荼羅(りょうかいまんだら)
江戸時代、幕府は仏教を民衆の支配に利用していました。日本は古くから本地垂迹(ほんちすいじゃく)の思想が浸透し神仏習合でしたが、明治の世になり明治政府による神仏分離令は、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動や廃仏思想に広がりました。市内で確認できるだけでも、笠間地区で八十三、友部地区で四十二、岩間地区で二十五の寺院が廃寺となりました。中には焼き討ちに遭うなど、今では所在さえ定かではない寺も数多くありますが、人々の信仰の場であった堂宇(どうう)に仏像や仏具だけをひっそりと安置し、地域の人々によって護(まも)られてきたところもありました。そのような寺院の一つ、片庭の西福寺を紹介します。
神徳(しんとく)山西福寺は真言宗、京都・醍醐寺(だいごじ)光台院末の金亀(きんき)山無量寿寺(むりょうじゅじ)阿弥陀院(箱田・廃寺)の末寺でした。現在、西福寺跡には北山内村の村長及び県会議員を務めた太田八三郎が、明治二年(一八六九)に建立した観音堂があります。堂内には、千手観音立像、西福寺住職の位牌のほかに六地蔵図屏風、念仏鉦(ねんぶつしょう)、そして両界曼荼羅がありました。昭和四十年代頃まで、地区の床取(とことり)(葬儀)には、六地蔵図屏風を逆さに立て葬とむらい場を設けました。そして曼荼羅を壁に掛け、出棺の合図には念仏鉦を打ったそうです。
曼荼羅とは、弘法大師が日本に伝えた真言密教の教理の根本を描いたものです。古代インドのサンスクリット語の音訳で「本質的なものを有する」という意味をもっています。両界は胎蔵界(たいぞうかい)と金剛界を表しています。胎蔵界とは、『大日経』に基づき、中心に描かれる大日如来の慈悲がまわりの世界に遍(あまね)く広がっていくさまを表わすといわれ、「理(り)」を説くとされます。院と呼ばれる十二の区画で構成され、中央に描かれている、中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)の大日如来を中心に四如来・四菩薩が座し、中台八葉院を囲む院にそれぞれ諸尊が配されています。金剛界とは、『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』に基づき大日如来の教えに向かって近づいていくための修行の道筋を示したものであるといわれ、「智」を説くとされます。九会(くえ)と呼ばれる九つの区画で構成されています。
西福寺の両界曼荼羅は二幅ともに縦一八五センチメートル横一二〇センチメートルの絹本軸物(けんぽんじくもの)です。江戸時代初期に作られたものですが、軸裏面の墨書によると、天明二年(一七八二)と昭和二十八年(一九五三)の修復により美しい色彩を保っています。平成十三年(二〇〇一)には、市指定文化財となり、現在は市教育委員会が保管・管理しています。
この両界曼荼羅ひとつからも、西福寺の在りし日の隆盛が目に浮かびます。そしてまたこの地域は、弘法大師伝説が色濃く残る土地であり、近くにある「お大師さま」とよばれる弘法大師を祀るお堂や石仏を目にすると、これらの堂宇が人々の信仰のよりどころであったことが実感として伝わります。
市史研究員 松山京子(まつやまきょうこ)

問合せ:生涯学習課
【電話】内線382

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