■天明六年の大水
近年は毎年のように全国各地で豪雨災害が発生し、多くの方々が被害に遭っています。江戸時代にも大雨による被害が発生しており、天明六年(一七八六)旧暦七月には関東全域で大雨が降りました。この雨は大きな被害をもたらし、茨城県内でもその被害状況が各地の史料に残されています。
笠間では七月十三日(現在の八月六日)から十五日まで激しい雷と大雨が昼夜続きました。笠間藩領の富谷村(桜川市)の商人・野村豊房(のむらとよふさ)は「(七月)十六日九つ(正午)前から雷雨となり、篠竹を束ねて上から落とすような勢いの豪雨となり、夜になっても雷がやまず、五つ(午後八時)時分が最も雨も雷も強く、四つ(午後十時)過ぎに所々の山が崩れ始めた。十七日午前中雨が一旦止んだが昼から再び降り始め、夕方より雷雨となり、夜通し大雨が続いた。十八日明け方に降りやんで、午後から曇り空になり、ようやく陽が差した。」と記録しました(富谷村野村家永代年代帳(天明三年~寛政三年)より)。
十六日以降、笠間城内で十六か所の山崩れが生じ、これにより大黒石付近にあった黒門番所が土石流に飲み込まれて谷底へ落ちました。城内各所の土石流が合わさって田町から大町を流れ下り、涸沼川へ落ち、大橋を落としました。土石流の流れに沿った商家、民家、侍屋敷は大きな被害を受け、荒町では民家の床上に四尺(約一・二メートル)の土砂が堆積しました。城下の南の常楽台(じょうらくだい)(下市毛の常楽観音堂(じょうらくかんのんどう)付近)でも山が崩れて宍戸・府中(石岡)から江戸に向かう街道が通行不能となりました。笠間側ではやむなく災害の第一報を小山経由の奥州道中で江戸の藩主牧野貞長(まきのさだなが)に届けました。飛脚は昼夜兼行(けんこう)で走り続け、二十二日夜に江戸に到着しました。城内ではその後も本丸の東櫓(やぐら)門が倒れ、空堀に架かる橋が落ちるなどの被害が続きました。江戸の藩邸(小名木沢下屋敷(おなぎざわしもやしき))も鴨居の高さまで水に浸かりました。
大雨の被害は広範囲でした。特に田畑には土砂が流れ込み、作物が駄目になりました。収穫が見込めず年貢が取れなくなることを「損毛(そんもう)」といいました。常陸国内の領地五万石のうち大雨によると思われる損毛高(だか)が四万石を超えました。財政危機に陥った藩は十二月に七千両を幕府から借用し、不足分は三井をはじめとする豪商から借りました。さらに領内の富豪へ御用金を強制的に割り当てました。穀物価格は急騰しました。笠間藩は穀留(こくど)め(穀物の領外への販売制限)を実施し、違反した城下の穀商二軒に戸閉め(営業停止)が申し渡されました。
藩主貞長は多忙でした。幕府の老中として未曽有の被害があった江戸の復旧を指揮していました。その最中の八月中旬に十代将軍徳川家治(とくがわいえはる)が体調を崩し、九月に死去、十月に葬送と仏事にも忙殺されました。その間の八月に田沼意次が老中を辞任し、天明七年(一七八七)六月に松平定信が新たに老中首座となりました。
復旧は根気のいる地道な作業です。洪水の復旧が進むと笠間藩の抱える問題点も明らかになりました。天明七年に一時減少した損毛高は程なく増加に転じ、寛政元年(一七八九)には一万五千石を超え、以後この水準が続きました。この損毛は耕作放棄によるもので、四十年前の延享三年(一七四六)から既に指摘されていた問題でした。損毛の増加とその原因である農村人口の減少、財政難と借金依存体質からの脱却といった藩の根幹に関わる諸問題は家来たちの努力だけでは解決できませんでした。藩主自らがリーダーシップを発揮して根本的な改革を行わなければならない状況に陥り、それを行ったのが次の藩主の牧野貞喜(まきのさだはる)でした。
市史研究員 深谷祐(ふかやゆう)
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