■元寇(注)
鎌倉時代中期の1274年と1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって、2度にわたり行われた日本侵攻です。「蒙古襲来」とも呼ばれています。
1度目を「文永の役」、2度目を「弘安の役」と言い、今年は、文永の役が起こった年から750年の節目の年に当たります。
文永の役で、元軍は勝本町北西部の浦海(うろみ)と馬場崎、天ヶ原の海岸などに上陸し、当時の壱岐守護代であった平 景隆(たいらのかげたか)の居城がある新庄(新城)に攻め込みました。この辺りは最後の激戦地であったとされ、「文永の役新城古戦場」と呼ばれており、その一画には戦死者を供養するための千人塚が遺(のこ)っています。
また、弘安の役で、当時の壱岐守護代、少弐資時(しょうにすけとき)が芦辺町北部の瀬戸浦と勝本から上陸した元軍を迎え撃ち、海上でも激しい戦闘が繰り広げられた「瀬戸浦古戦場」など、壱岐には元寇に関するたくさんの史跡が遺(のこ)っています。
(注):「元寇」という呼称は、江戸時代に徳川光圀(とくがわみつくに)が編纂を開始した「大日本史」が最初の用例で、以後18世紀の長村鑒(ながむらあきら)「蒙古寇紀」、小宮山昌秀(こみやままさひで)「元寇始末」、19世紀の大橋訥庵(おおはしとつあん)「元寇紀略」など「寇」を用いた史書が現れ、江戸時代後期には「元寇」という呼称が一般的になりました。
問合せ:ながさきピース文化祭2025 壱岐市実行委員会事務局(壱岐市教育委員会 社会教育課内)
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