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わがまち再発見 対馬発掘調査日誌 ~郷土の歴史に思いをはせて~ 第22回

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長崎県対馬市

■弥生時代後期の朝鮮半島南海岸と墓制のつながりをもつ「経隈(きょうのくま)遺跡」
経隈遺跡(上対馬町河内)は、大浦湾に突出した小高い丘にある弥生時代後期(約2,000年前)の埋葬遺跡です。地山を整形し、盛土して造られた楕円形の墳丘中央部に、3つの石棺が確認されました。3つは、ほぼ同時期に埋葬されたと考えられ、そのうち2つの石棺の上には、四角形に石が積まれていました。副葬品として、土器と鉄剣、ガラス小玉が出土し、合わせて13個の副葬土器のうち、弥生土器が8個、残り5個は金海(きんかい)式土器といわれる朝鮮半島系の土器でした。
盛土などで墳丘を造成した弥生時代終末期の墓は高塚(たかつか)と呼ばれ、全国各地で発見されており、古墳前段階の墓地の形態とされています。しかし、経隈遺跡は単に日本列島の弥生終末期の墳墓であるとは言い切れません。石棺の上に石を方形に積み上げる方法は、韓国の支石墓(しせきぼ)でよくみられる特徴です。積石がないものが最も新しく、埋葬を簡略化する傾向のある時期に造られたと考えられます。また、金海式土器が副葬されていることから、弥生後期の対馬の人々の生活に朝鮮半島との交流があったことがわかります。これらのことから、経隈遺跡は朝鮮半島南海岸地域と関係があるのかもしれません。
対馬では弥生時代の集落遺跡の調査事例が少なく、対馬の弥生時代がどのようなものであったかは、まだ明確になっていません。今後、調査が進んでいけば、弥生時代から古墳時代に移る時期の対馬の人々の暮らしをたどることができるようになると期待されます。

次回は、対州焼の中心をなした「志賀窯跡」を紹介します。

問合せ:文化財課
【電話】0920-54-2341

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