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波佐見の偉人 第6回

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長崎県波佐見町

◆髙月 信吉(のぶきち)
◇教育界での活躍
髙月信吉は明治9年(1876)に髙月左平の次男として乙長野郷で生まれました。父・左平は明治11~14年(1878~1881)の間、下波佐見村西部戸長(村長)を務めることになります。
信吉は幼少から優秀でまれにみる偉才とされ、大村のある学校長から見込まれて養子となり、小学校から中学校までを大村で過ごしました。明治28年(1895)私立大村尋常大村中学校(長崎県立大村高等学校)を卒業し、4月から上波佐見村下波佐見村組合立波佐見尋常高等小学校(中央・南・東小学校)の教員となりました。同校は宿郷の庄屋跡のイチョウ(町指定天然記念物)の近くに建てられていました。
信吉は明治31年(1898)実兄・髙月源作が戦死したので髙月家に帰りました。その後、折尾瀬・下波佐見・東京市四谷の小学校教員を務め、この間陸軍の騎兵にも籍を置き、明治37年(1904)日露戦争に従軍し、騎兵曹長に任命されました。その後も下波佐見・日宇・川棚・上波佐見の各小学校長を歴任、昭和3年(1928)に退職するまで東彼杵郡の教育界を主導しました。

◇波佐見高等女学校の創立
昭和2年(1927)の始め、信吉は宿郷の久保田栄吉と相談し、久保田家の蚕種製造所(養蚕会社)を利用して、女子のための実業学校設立を計画し、上下波佐見村民に賛同を求めました。両村民は信吉の熱意に打たれて、波佐見の女子教育の重要性を認識し、9月、現在の波佐見町役場の地に上・下波佐見村組合立波佐見高等女学校を創立し、校長として堅実な農村婦人の育成に尽力し、波佐見の女子教育の基礎が確立したのでした。

◇下波佐見村長就任
翌年、下波佐見村は県の指導農村の指定を受け、モデル農村として歩み出し、信吉は昭和4年(1929)下波佐見村長となり、昭和22年(1947)までの18年間村政の重責を果たしました。
昭和7年(1932)下波佐見村は県の経済更生村に指定され、信吉は村民の先頭に立って、産業の振興・教育の改善・文化の発展向上に全力を傾け、理想農村建設に尽くしました。そしてその功績が認められ、勲六等瑞宝章を受章しました。

◇農学校の創立
そして、信吉は昭和16年(1941)に上下両波佐見村と川棚村の組合立農学校(長崎県立川棚高等学校)を創立して下波佐見村長のまま校長職務取扱(初代校長)となり、農業者の教育を開始しました。村長在任期間は太平洋戦争前後の混乱期でしたが、滅私奉公の心構えで村民の先頭に立って苦労しました。

◇晩年から終焉
晩年も信吉は東彼杵郡畜産組合長・下波佐見村農業会長・長崎県茶業協会長を歴任し、地方産業経済の発展に尽力し、昭和28年(1953)に没しました。
信吉の人生は下波佐見村を中心に波佐見の近代化を常に考え、正に教育と地方自治に力を尽くした一生でした。
なお、昭和28年5月、下波佐見村によって「髙月信吉翁之像」(胸像)が同村役場に建てられ、鴻ノ巣保育所の駐車場内で今も見ることができます。

学芸員 盛山 隆行

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