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波佐見の偉人 第3回

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長崎県波佐見町

◆福田安兵衛(やすべえ)

福田安兵衛は江戸時代中期の寛政3年(1791)頃、稗木場郷皿山(今の皿山郷)で生まれました。
江戸時代、現在の皿山郷は稗木場郷の一部で、やきものが焼かれていた地域だったので皿山と称し、明治22年(1889)稗木場郷から皿山郷として独立した地域になります。
当時、安兵衛には名字はなく、皿山の高尾の辻でやきものを焼きながら庄屋を務めていました。庄屋とは村人の代表者で村役人のトップですが、波佐見の場合、今で言うと自治会長のような存在でした。
江戸時代後期の天保4年(1833)から同8年(1837)天候不順が原因で起こった天保(てんぽう)の大飢饉(だいききん)では凶作により東北地方を中心に数万の餓死者が出て、各地で百姓一揆が起こり、江戸や大坂の商店では打ちこわしの大騒動が続きました。
西日本でも飢饉が起こり、波佐見村も影響を受け、皿山でもやきものは売れず、窯の火は消える一方でした。庄屋の安兵衛は大村藩に皿山の苦しい実情を訴え、窯元一同の上納銀(税金)を納める猶予をお願いしました。
すると大村藩は飢えに苦しむ22軒を大野原(おおのばる)(東彼杵町)に移住させ、開墾させることにしました。しかし安兵衛は夜も眠れず心を痛め、もし大野原に移住したら先祖伝来、寛文年間(1661~1673)からのやきものづくりは消え、景気が回復してもやきものづくりはできなくなると決断し、大村藩へ願い出て移住を中止してもらいました。そして安兵衛は皿山の窯の火を守ろうと自分の財産を売って郷民へ食べ物を与えました。
この決心を安兵衛は大村藩士で皿山目付という役人を務めていた同じく皿山の住人・馬場直右衛門忠英(なおえもんただひで)に相談したら、直右衛門は感激し自分も協力しようと申し出ました。
こうして特に生活の苦しい郷民を安兵衛は屋敷に呼んで3度の食事を与え続けて3年が経った頃には財産のほとんどを売り払ってしまいました。この間、窯焼きも安兵衛1人となり、1年にわずか1回の窯入れをして、皿山の伝統を守りました。
ようやくやきものが少しずつ売れ出したので、安兵衛は仲間を連れて来てやきものづくりを勧め、皿山は久しぶりに窯の煙が立ち昇るようになり、ついに窯の火を絶やすことはなかったのです。大村藩主は安兵衛の多年の功績を称え、米15俵を与え、「福田」の名字と名刀を与えました。
その後、景気が悪くなっても窯の火が消えることはなかったので、義人安兵衛の助けがあってこそだと言われました。
安兵衛は安政5年(1858)1月17日、67歳で亡くなりました。
安兵衛の墓は皿山郷の入口の北の福田家墓地にあります。なお、平成14年(2002)5月吉日に安兵衛の子孫・福田善明兄弟一同による義人 福田安兵衛の顕彰碑が皿山大神宮境内に建立されました。

※福田安兵衛がどのような顔だったのかを窺い知る肖像画は全く残っていませんが、波佐見町歴史文化交流館(波佐見ミュージアム)の開館に際し、先人パネルで安兵衛の業績を紹介するため、安兵衛の子孫・福田学さん(皿山人形浄瑠璃保存会長)のお顔を参考にイメージ復元した肖像画を展示施工業者の株式会社トータルメディア開発研究所に制作していただきました。

学芸員 盛山 隆行

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