~祈りの旅路の果てに~
「千々石清左衛門(せいざえもん)の墓」諫早市文化財に指定
2003年12月に多良見町山川内で発見された「千々石ミゲルのものとみられる墓石」が、4回にわたる民間団体の発掘調査を経て、「千々石清左衛門の墓」として市の文化財に指定されました。
※「ミゲル」は洗礼名。棄教し、「清左衛門」と名を改めた。
天正遣欧少年使節の一人である千々石ミゲルは、ヨーロッパを見て帰ってきた最初の日本人と言われ、日本史を語るときには欠かすことのできない人物です。
今号は、この貴重な歴史的発見とその文化的意義を紹介します。
【01】天正遣欧少年使節
○鉄砲伝来とキリスト教
今から481年前⦅1543年⦆、ポルトガル人を乗せた船が種子島⦅鹿児島県⦆に漂着し、鉄砲が伝えられました。やがてポルトガルの商船は、平戸や長崎などに来て貿易をするようになりました。
鉄砲の伝来から6年後、イエズス会の宣教師ザビエルが鹿児島にキリスト教を伝えました。以来宣教師が次々に日本を訪れ、貿易の世話をしながら教えを広めました。当時、キリスト教の信者を「キリシタン」といいました。
○キリシタン大名
1563年肥前⦅長崎県⦆の大名の大村純忠はキリスト教の洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となります。さらに領地の長崎をイエズス会に寄付したので、ここが貿易と布教の中心となりました。
宣教師は人々の平等を説き、教会をはじめ学校や病院、孤児院を建て、地球が球形であることなどを伝えました。これらにより、キリスト教が西日本を中心に広まりました。
○巡察師ヴァリニャーノ
織田信長の晩年、イエズス会のヴァリニャーノ神父が来日しました。日本での布教責任者でもあった神父は、ヨーロッパに日本を紹介して援助を求めるとともに、日本人自身に「ヨーロッパの素晴らしさ・偉大さ」を語らせて布教活動を進めるため、日本人の若者をヨーロッパに派遣することを計画しました。これが日本で最初のヨーロッパ公式使節団「天正遣欧少年使節」です。
使節団には、九州のキリシタン大名である大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の使節として伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの13歳前後の4人の少年が選ばれました。
○苦難の航海と熱狂的な歓迎
当時のインド航路は、「ポルトガル船が4隻中2隻が無事に帰り着けば幸い」と言われるほど危険を伴った旅でした。使節団は、長崎を1582年2月に出発、2年6か月後にポルトガルの首都リスボンに到着。ポルトガル、スペインで国王などの歓迎を受けた後、最後の訪問地ローマでは、ローマ教皇グレグリオ13世自らの祝福や市民権の証明書の授与など大歓迎を受けました。
○禁教令
出発から8年後の1590年、たくさんのお土産や活版印刷機などを持って帰国した使節団を待っていたのは、保護者である大村純忠、大友宗麟の死、そして豊臣秀吉によるキリスト教の禁教令でした。
一行は同年7月、長崎に帰ってきました。翌年、聚楽第で豊臣秀吉に会い、西洋音楽を演奏し、秀吉が3度アンコールしたと伝えられています。
○旅路の果て
しかし、その後の4人は禁教令の弾圧の中で過酷な運命をたどります。千々石ミゲルはキリスト教を棄てたといわれ、伊東マンショは長崎で病死、原マルチノはマカオに追放されて病死、中浦ジュリアンは長崎の西坂で拷問を受け亡くなります。
彼らの生涯は、歴史の過渡期の中で光と影のように激動の運命をたどりました。
参考文献:天正遣欧少年とその時代⦅大村市教委⦆
【02】千々石清左衛門
○ミゲルの晩年
1601年、千々石ミゲルはイエズス会を脱会。帰国して11年目、32歳でした。そして、従兄弟の大村藩藩主・大村喜前の家臣となり、伊木力に600石の食禄をもらいました。
さらにミゲルは棄教したといわれており、名を「清左衛門」と改め、妻をめとり四人の男の子の父親となりました。
なぜイエズス会を脱会し、棄教したのかはよくわかっていませんが、キリスト教と決別した清左衛門は、喜前とともに今度はイエズス会のバテレン⦅神父⦆を領内から追放する側にまわりました。ところがその後、喜前と仲たがいし、たびたび喜前に命を狙われそうになります。
一説では、喜前がキリシタン禁制発布後の藩内の動揺を鎮めるため、非難の矛先を清左衛門ただ一人に押し付け、見せしめ的に処罰したと言われています。
その後の清左衛門は、大村藩・キリシタンの両方の勢力から追われるように大村を逃げ出し、島原半島の有馬晴信のもとに身を寄せました。しかし、まだキリスト教の盛んな有馬でも背教者として非難され、家臣に瀕死の重傷を負わされたといわれています。
大村にも有馬にも居られなくなった清左衛門はその後、長崎に移り住んだといわれており、没年などは謎に包まれていました。
参考文献:ドキュメント天正少年使節⦅長崎文献社⦆
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