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[来日200周年特集]シーボルトが長崎と世界に伝えたもの(1)

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長崎県長崎市

■山オランダ人!?シーボルト
出島オランダ商館付医師、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。名前を聞いたことがある人は多いはず。鎖国時代、オランダ人以外のヨーロッパ人は入国を禁止されていた日本に、ドイツ人であるシーボルトがどうして入国できたのか、ご存じですか?
実は、オランダ人に成りすまして入国していたシーボルト。彼は当時オランダ語があまり上手ではありませんでした。日本の阿蘭陀(おらんだ)通詞にオランダ人かと不審がられた際に、「山オランダ人」訛りだと言ってごまかしたそうです(オランダは平地の国ですから、山はないんですけどね)。
そんなシーボルトが出島に降り立ったのは1823年のこと。今年で200周年を迎えます。
今回の特集では、シーボルトが日本で何をしたのか、シーボルトゆかりの地をご紹介します。

■西洋医学を日本に教えた
その頃の日本では、出島にいる外国人は出島からほとんど出られませんでしたが、医師として活躍していたシーボルトは特別に長崎の町に出て病人を診察することを許されていました。鳴滝にあった民家を買い上げ、診療所を兼ねた「鳴滝塾」を開きました。ここには髙野長英や伊東玄朴などの著名な医師をはじめ、日本各地から人が集まり、シーボルトから西洋医学を学びました。
そこでシーボルトは最先端の西洋医学を塾生たちに教えたとされています。彼が教えた内容は、天然痘の予防接種ワクチンやベラドンナを使った白内障の手術、瀉血(しゃけつ)手術(体から血を出す手術)などさまざまでした。

■日本の動植物などを研究したシーボルト
シーボルトは医学を教えながら、日本の植物や動物について調べ、記録を残しました。許可を得て長崎の町に出ていましたが、江戸参府以外では日本を巡ることができなかったシーボルト。鳴滝塾の門弟たちから日本のさまざまな情報を入手し、標本作成や論文執筆などを行いました。
その際に活躍したのが絵師の川原慶賀(けいが)です。彼は出島に自由に出入りできる「出島出入絵師」で、出島の商館員などの依頼で日本のいろんなものを描きました。
現代のようにカラー写真などはないため、植物や動物の姿は絵で表すことになります。川原慶賀は、植物学的にも役立つ図譜を数多く生み出しました。
他にも江戸時代の長崎の風景、文化、動物などをこまやかに描き、シーボルトの傑作三部「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」に掲載されている絵の図版作成の際の下絵となっています。
これらの書物が当時閉ざされていた日本の自然・歴史・文化などを世界に伝えました。

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