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Communicationつながる掲示板

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長崎県長崎市

このコーナーは、市民の皆さんからのお便りにお答えする「つながる」掲示板です。
広報ながさきの感想やまちづくりに関するご意見をプレゼントクイズのコーナーにお寄せください。
掲載されたかたには、図書カードをプレゼントします。

■市役所の前にある表札「長崎市役所 長崎市議会」の書体は何ですか。(鳴見町・70代のかた)

◆近代活版印刷の祖・本木昌造(もときしょうぞう)ゆかりの文字です。
本木昌造は、長崎市出身のオランダ通詞(通訳)でしたが、活字製造や活版印刷のほか多方面に活躍した人物です。市役所の銘板は、本木昌造が西道仙(にしどうせん)、松田源五郎らと明治6年に創刊した「長崎新聞」の紙面の文字から採りました(現在の長崎新聞とは異なります)。
ちなみに、西道仙は長崎区会の初代議長を務め、松田源五郎は第十八国立銀行の創業者で、長崎商法会議所(長崎商工会議所の前身)の初代会頭を務めた人物です。

正面玄関内の「定礎」の書体も本木昌造の活字を使用した日本初の地方紙「崎陽雑報(きようざっぽう)」の紙面から採りました。

◆日本の近代活版印刷の祖・本木昌造
江戸時代の日本では、木の板に文字や絵を彫り、版画のようにページを印刷する木版印刷が主流でした。本木昌造は、通詞として海外の書物や技術に触れる中で、文字が整然と並ぶヨーロッパの活版印刷に関心を持ち、日本での普及を夢見ました。
活版印刷は、文字や記号を1文字ずつ彫った「活字」を組み合わせて印刷するので、効率的に版を組むことができます。
しかし、日本語は画数の多い漢字や曲線の多いカナで構成され、文字の種類も膨大。活字の製造は苦難の連続でした。
明治2年に上海からアメリカ人技師ガンブルを招いて新しい技術を習得すると、翌年に日本初の民間活版所である新町活版所を設立しました。
本木昌造は後進の育成と活版印刷の普及にも熱心でした。弟子の平野富二が東京に長崎新塾出張活版製造所(後の東京築地活版製造所)を開くなど、門弟により「本木活字」は全国へ広がり、本木昌造は近代活版印刷の祖とも言われています。

◇本木昌造の活躍は多方面に
本木昌造は、ロシアのプチャーチンやアメリカのペリー来航時に通訳を務めました。日米和親条約には本木のサインが残っています。
また、浜町と築町の間に鉄橋(くろがねばし)(通称「てつばし」)を建設したり、津波で沈没したロシア船の代替船の建造や、海軍伝習所の開設にも関与しました。あるときは、船長として航海中に暴風雨に遭い、平野富二と漂流、八丈島へ漂着したこともあります。ちなみに、平野富二は石川島造船所(現在のIHI)を設立した人物です。
大河ドラマのような波乱の生涯を送った本木昌造は、明治8年に51歳で亡くなりました。墓は大光寺にあり、市指定史跡となっています。
幕末、明治の変革期にあって、時代を先取りし、さまざまな挑戦を続けた偉人・本木昌造。
来年、生誕200周年を迎えます。

問合せ:
大型事業推進室【電話】829-1411
長崎学研究所【電話】818-8388

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