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文化なかの「公民館報」No.222 ~ふるさとの歴史

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長野県中野市 クリエイティブ・コモンズ

■片塩の愛宕山(あたごさん)に鎮座する将軍地蔵のいわれ
片塩の大徳寺に隣接して愛宕山がある。かつては熱心な信者から崇拝されていた。
愛宕山の本尊は、大徳寺裏山の池の中から掘り出したと伝えられる延命地蔵であるが、それとは別に本地仏である将軍地蔵も祀られている。今まで、この将軍地蔵が祀られるようになったいわれは定かでなかった。
ところが、最近になって、将軍地蔵が祀られた経緯の記された「建立成就迄萬覚記(こんりゅうじょうじゅまでよろずおぼえき)」の存在が確認されたのである。それによると大まかな経緯は次のようであった。
1758(宝暦8)年12月7日夜、大徳寺月岺(げっしん)和尚が不思議な延命地蔵の夢を見た。将軍地蔵を造像せよという。
そこで、月岺和尚は人を遣わして、江戸神田の大仏師高橋兵部(ひょうぶ)へ将軍地蔵造像の依頼をした。と同時に、檀家の田中清右衛門(せいえもん)へ、造像のための寄進(きしん)の取りまとめを頼んだ。寄進者は地元だけでなく、江戸や伊勢などの広範囲に及んでいる。
ご入仏は翌年の8月24日昼に行われた。朝は雨が降っていたが、昼には晴天になったという。萬覚記には「首尾好済(しゅびこうさい)」と記されており、万事滞りなく出来たのである。
とは言え、ここに記されている内容が本当であるか、判断に悩むところではある。
そこで、大徳寺ご住職にお願いして調べたところ、月岺和尚は十代住職で没年が宝暦12年であること、将軍地蔵台座の引出し側面に「江戸神田 通新石町 大佛師 高橋兵部 造 二十九才」と記されていることが分かった。
現在、将軍地蔵は綺麗に磨かれて大徳寺の本堂に安置されている。当時の人々の思いが現在にもつながっているのである。

寺島正友「高井」常任委員

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