■江戸時代、中野市域に設けられた天領陣屋(4)
―県庁になった中野陣屋―
江戸時代、天領(幕府領)となった中野市域には、天領を治める陣屋(じんや)(代官所)が中野・金井・西条・新野に設置された。これらの中で、中野陣屋は中心的な役割を果たしてきた。
中野陣屋は、現在の中野陣屋・県庁記念館や柳長などを含む場所にあった。規模は東西四五間、南北五二間と大きく、敷地内には井戸や稲荷神社があり、八ヶ郷用水堰(はっかごうようすいせぎ)が流れていた。
中野陣屋は1616(元和2)年、松平忠輝(まつだいらただてる)の改易に伴って設置されたが、1618(元和4)年に一度廃止された。その後、1650(慶安3)年に再設置され、1682(天和2)年には再び廃止されるなど、何度も変遷があった。1702(元禄15)年に再び設置され、1722(享保7)年には新野陣屋を合併し、1724(享保9)年には飯山本多領の一部も加わったため、信州随一の陣屋となった。
明治時代に入ると、1870(明治3)年9月に中野県が設立され、中野陣屋は県庁として使われることになった。しかし、同年12月に中野騒動で焼き打ちに遭い、陣屋は焼失してしまった。
中野町の人々は再建を嘆願したが叶わず、県庁は長野に移された。県庁としての役割はわずか10カ月という短い期間であった。
寺島正友
「高井」会長
<この記事についてアンケートにご協力ください。>