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伊那市長のたき火通信

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長野県伊那市

■Ω(おめが)カーブ
木曽谷を走る中央線。明治時代、なぜ伊那谷ではなく木曽の狭い谷間に蒸気機関車を走らせたのでしょうか?「中山道」が江戸時代からあったから?そうであれば伊那谷には、さらに古い律令時代からの「東山道」がありました。何故でしょう?
名古屋と塩尻を結ぶ中央線は、明治42年(1909年)に塩尻~奈良井間が延伸開業となりました。伊那谷に大動脈の機関車を走らせるべく誘致活動をしていた伊那谷の経済人たちは、すぐさまJR飯田線の前身である「伊那電気鉄道株式会社」の設立と、動力源となる水力発電所の建設に着手しました。まず辰野駅と伊那松島駅間の開業に至り、伊那電気鉄道は、昭和2年(1927年)に辰野駅~天竜峡駅までが繋がったわけです。蒸気機関車が全盛の時代に電車に着目したことは先見の明があったと言えます。
伊那谷に蒸気機関車を誘致できなかった理由は、伊那谷の地形にあると言われています。少し詳しく言えば、中央アルプスから流れ下る何本もの急流河川の河口に長大橋を架けることが難しかったのです。木曽谷と伊那谷のあいだにある中央アルプスの3,000m近い峰々から、滝のような急流が天竜川に向かって滾(たぎ)りながら流れ下ります。太田切川、中田切川、与田切川、片桐松川、飯田松川などが大地を削り、田切地形をつくりながら天竜川に流れ込みます。また天竜峡から南の地質が悪く、極めて狭い谷筋に鉄道をひくことの難しさがもうひとつの理由でした。
伊那電気鉄道はそれぞれの支流が天竜川に合流する地点に長い鉄橋を架けられず、一旦上流側に上り、狭くなったところに橋を架けて下流に下る線形となりました。「Ωカーブ」と呼ばれる珍しい形です。顕著な「Ωカーブ」は、中田切川、与田切川、片桐松川、飯田松川に見られます。一方の木曽谷は、中央アルプスからの伊奈川と正沢川が比較的大きな河川ですが、河口が細く中央線は木曽川の左岸をずっと走ります。
飯田の下山村駅で電車を降りて、電車が鼎(かなえ)駅、切石(きりいし)駅、飯田駅、桜町駅、伊那上郷駅とΩカーブを走るあいだに、伊那上郷まで走って同じ電車に乗ることができるかと言う「下山ダッシュ」なる遊びもあります。

伊那市長 白鳥考

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