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想いを石に刻む~高遠石工の歩いた道~

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長野県伊那市

■Vol.36 市内の貞治仏探訪12
前々回に桂泉院(けいせいいん)で細工帳に記された貞治仏(さだじぶつ)で市内のものは最終とお伝えしましたが、建福寺にある頭部などが補修された聖観世音菩薩も細工帳に記載されているもので確からしいことが分かったので、引き続き紹介します。
昭和60年(1985年)、守屋貞治と縁のある守谷商会が、この観音様は細工帳の「一、正観世音菩薩シモ町扇屋」のことであるとして「正観世音菩薩下モ町扇屋」という標柱を建てました。ただ、どのような資料や証言をもとにしたかは標柱には示されていないため、近年貞治仏を学び始めた我々にとっては情報不足でした。
そこで、観音様の台座に刻まれた字を確認してみました。正面に「奉順拝(じゅんぱいしたてまつる)四国西国秩父坂東供養塔」、右の面に「文政十丁亥年小松徳右衛門二十八歳成就之(これをじょうじゅす)」、左の面に石仏に込めた願いの文がそれぞれ刻まれていました。小松徳右衛門という二十代の若者が四国八十八ヶ所、西国三十三所、秩父三十四番、板東三十三所の各霊場を巡り、その信仰心の結晶として文政10年(1827年)に造らせたものと考えられます。
続いて、小松徳右衛門と下モ町扇屋が一致するか検討するために、文化年間の高遠町の絵図と下モ町の宗門人別改帳(安政年間以後のものしか確認できず)を開いてみました。絵図では下モ町の一角に「扇屋徳右衛門」を確認。宗門人別改帳では「小松徳右衛門」を確認。いずれの資料も下モ町に徳右衛門は1名しか確認できず、扇屋の小松家で代々徳右衛門を襲名していると推定されます。年代も貞治の活動期なので扇屋の小松徳右衛門の依頼で守屋貞治が造ったものと考えるのが妥当という結論に至りました。
この観音様は西国三十三所観世音菩薩の二段目の建屋の脇に安置されています。一度倒壊したのか、頭・手・膝が壊れてなくなっており、後世に石屋さんがそれらしく補修しています。像から基礎までを高遠の青石で造っており、表面は滑らかな仕上げです。肌の部分は特に入念に磨かれており、艶があります。元はどのような顔だったのでしょう。壊れてしまったことが大変惜しまれます。

問合せ:高遠町歴史博物館

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