■古い山道具
捨てられない、たいそう草臥(くたび)れたコッフェル(アルミ製の調理用器具)があります。数えきれないほど焚き火に炙(あぶ)られ黒くなり、ぶつけた傷跡も数知れず、ひしゃげて鍋の面影は消えて、とても料理には使いたくないような容姿です。学生時代から登山や沢登りで使ってきましたから、もう50年近くにもなります。雪を解かして味噌汁やラーメンをつくり、お椀がわりにご飯を盛って食べ、少し濯(すす)いでコーヒーやウィスキーをいれ、時には日本酒を熱燗にしたりして、この黒いコッフェルとは長年一緒に過ごしてきました。冬のテントや雪洞(せつどう)で煮炊きをし、渓流を遡行(そこう)した源流で焚き火をしてイワナ汁をつくり、渓流の清冽(せいれつ)な水でウィスキーを割り、山行では必ずザックに入れていくアイテムです。
スイス製のナイフも山に行くときにはいつも首に掛けています。スイスのナイフメーカー、ビクトリノックス社製のシンプルなナイフです。岩魚を三枚におろして刺身にしたり、ハンノキの枝を削って焼き串や箸をつくり、ハム・ソーセージを切り、時には細引(ほそび)き(ロープ)を切って修理に使ったりと、このナイフも長年の相棒のひとつです。昔、仲間が水流に巻き込まれて沈んでいくことがありました。咄嗟(とっさ)にこのナイフでロープを切って一命をとりとめたことがありました。就寝中やテント内で雪崩(なだれ)に埋められた時も、このナイフで寝袋やテントを切り裂いて脱出することができます。山に行くときには、いつでも使えるように肌身離さず首から下げています。
捨てられない道具はほかにもあります。靴底のすり減った登山靴、ピックの欠けたピッケル、劣化して傷だらけのヘルメットなどです。伸縮自在のフランス製ストックは、40年ほど前に諏訪の登山用品店で購入した優れもので、今でも一緒に山に登っています。
ガスコンロ、コッフェル、ルックサック、カッパ、登山靴などの登山用具は、耐久性に優れ、機能的でシンプルです。長く使い続けることができます。「物持ちがいいね」と揶揄(やゆ)され、「そんな汚いコッフェルなど捨てればぁ」と侮蔑(ぶべつ)されても、愛着を越えて愛情さえ抱く古い道具たち。長く時間を過ごしてきた私の大事な相棒であり、大切なお守りです。
伊那市長 白鳥考
<この記事についてアンケートにご協力ください。>