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地域の歴史(16)松原

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長野県小海町

松原がいつできたか。伝えられる所では松原の昔の名前『伊那古』に天長三年(八二六)に慈覚大師が神宮寺を建立したと云われている。(この時に伊那古明神も)この時代は鹿や猪、栗や栃の実を主食とした縄文時代から、黍などの耕作によって食料を確保する時代に変わって来た時代の境で、しかもこの地帯は国でも辺境地と云われた場所でなぜ?こんな所に?と思われるがその経過は判らない。
承和五年(八三八)初代寺の主、覚伝が亡くなったと伝えられ、松原湖が出来たのが仁和三年(八八七)で伊那古明神の神主として松原大弥太が應和二年(九六二)に住んだと史書は伝えている。松原は神主もおり、寺もあったので、何らかの文書は残されて居たと思われるが、天和年間(一六五四)に村が焼失したと伝えられ、その後も何度かの火災で松原は古い記録が全くないので、伝承と残された遺物で判明するしかない。
しかし、松原には「三重塔」「野ざらしの鐘」「三寅剣」「五鈷鈴」「鳳凰文八稜鏡」など、数多くの宝物が伝えられ、江戸時代の三十三番札所には神宮寺、神光寺も含まれ、寛政十一年の長野、戸隠から松原までの旅行記の最後には「その景色は湖水の波静かに漁夫船をうながし、山花錦の如く、黄色鳥枝に吟じ、神前には金銀珠玉をちりばめ、善を尽くし美し、武田の願書、陣鐘あり、そのほか宝物多し、八月の御祭礼には貴賤群衆の有様陳べ難し」と書かれており、この時代(元禄の終わり一七〇〇頃から昭和の中頃一八七〇頃)長い間、観光名所として近辺随一の所だった。
松原は昔から三十石の御朱印地として数百年の間、現在で云う税金や諸負担は一切懸からず、江戸時代の天明の飢饉、天保の飢饉でも餓死者が出ていない恵まれた地域で過ごしてきた。人口は江戸時代を通じて三十五戸、百四十人前後で過ごし昭和の中頃から七十戸、四百人と記録されている。
現在でも、松原湖、松原諏方明神があり、シャトレーゼ(リエックス)からの収益や「八峰の湯」「美術館」「音楽堂」「スケートリンク」「シャトレーゼ売店」などの施設があり、小海町では最も恵まれた集落と云える。

町志中世編纂委員 宿岩善人

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