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地域の歴史(19)土村

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長野県小海町

中世の絵図面に相木湖または小海湖と書かれたものが見られる。その絵図面には、渡村、あるいは欠村と書かれている。これが土村である。集落の沿革は新しいと言えるが、相木湖あるいは小海湖の出現した後に地名の呼称はあったものと推察される。
慶長年間(一六〇〇~一六一〇)頃、新津九衛門は小谷澤村(親澤)から分かれて向畑諏訪神社付近に住居した。しかし、相木川の度重なる水害に耐え兼ねて、水害のない陽当たりがよく、清水の豊富な下屋敷に移った。
その後、延宝年間(一六七四~一六八〇)「くねのうち」と云われる牧場になっていた上の原、現在の旭町の位置に移った。ここが牧場であったことは、馬止の柵を結った「馬ふさぎ」あるいは「馬入ず」「外出(外で)」「馬捨場」などの地名によっても推察される。
また、延宝四年(一六七六)小海村土村検地長にも「くねのうち」が書かれている。この「くね」地名と「垣外(かいと)」地名は古代にその土地の開拓の入った草わけの人たちの住んでいた所の地名で、垣根にした柵のことを「くね」と呼ぶので、柵や垣根を家の周りにつくっておいた事を表す地名である。
寛文年間(一六六一~一六七一)には新田(南町)辺りにも家が建てられた。土村の語源は、親沢から出た出村、仁和三年(八八七)の天狗岳崩壊で泥だらけだったから泥村と云ったのが変化したのだと云う説などがある。また、いつの頃より土村と称したかは定かではない。
延宝六年(一六七八)郷中邑鏡には渡村の文字があり、古記録や絵図面に宿渡が宿土になっているものも見受けられる。なお、土村南町の田圃は十二新田と云う。また、芦屋田圃を午新田と云う。
寛永六年(一六二九)郷中邑鏡には、土村戸数三戸。小海村合わせて二十七戸。
延宝四年(一六七六)屋敷水帳には、土村十六戸内本屋敷十四戸。小海村合わせて一三四戸、新屋敷二戸。(新屋敷とは分家のこと)
延宝六年(一六七八)郷中邑鏡(寛永六年から五十年後)によれば、土村本郷八戸、親沢よりの移住者。土村新田六戸、甲州大武川村、佐久郡平林村の移住者。慈法院一戸、土村合わせて十五戸。土村男四八人、土村女四四人、合わせて九二人。土村馬十二頭。
宝暦十三年(一七六三)の古文書に土村組小海組よりわかれるとあり、それまでは小海組に入っていた。

町志中世編纂委員 成澤良夫

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