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地域の歴史(20)東馬流

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長野県小海町

東馬流は平成二十三年に、東馬流昭和一桁会に依って二百余ページの「東馬流の歩み」が発刊されて東馬流の詳しい歩みは是に述べられている。
今回『館報』に東馬流〔以下東と略称〕を掲載するには参考にさせて頂いた。東は崎田村の高岩組新田としてとあるが、ここに残る五輪塔などは室町前期(一四〇〇)の石碑で、中嶋明彦さん宅に保存されている『板碑』がこの地方に入ってきたのは徳治年間(一三〇〇)なので、何れ東に人が住み着いたのは室町時代の前期からだろう。
戦乱の場所を逃れて、石ころだらけの土地に僅かに稗、粟の出来る土地を見つけて住み着いた人は、先祖に崇敬の深い人で五輪塔はその人が残した石造物だろう。此の時代から東を通って本村方面に歩く人が、「すばり」─「宿渡」─「本村」と相木街道が形造られたのではないか。
東が集落として始まったのは延宝五年(一六七七)。千曲川の水を堰を造り引いてあげる工事が始まったのは天和元年(一六八一)で、大変な難工事だったが完成した。大正十四年穂積発電所への導水により、この堰の水利権を東信電気が認め、未来に渡って堰水の確保を東と交わしている。
江戸時代初期の絵図では、本村から樋ノ口まで二里(八キロ。東馬流が中間点)とあり、寛政十一年(一七九九)の絵図では、相木街道と甲州道の分岐点になっており、明治の始めには『小池医院』が開設され、東は佐久平と相木、川上方面の物流の中継地として賑わいを見せており、大正八年小海線の開通では当初東が駅の候補地にもなったが、用地の確保や鉄橋などの建設で土村地区に新駅の所在が決まった。
東馬流が最も人口が多かったのは昭和二十八年で六百八人、百十五戸だった。現在は二百九人、一〇三戸である。
村の主産業だった農業は蚕─米─花卉(菊)と移って来たが、現在はその花卉農家も無くなり、あたり一面がソーラーパネルの集落になった。
明治十七年に東馬流で終焉を迎えた秩父事件も、昭和八年に『秩父暴徒戦死者の墓』、平成六年に『顕彰碑』が建立され、昭和四十年ころから事件の研究も進められ単なる事件で無く圧政に苦しむ農民の蜂起という評価が認められ、今でも此処東馬流に犠牲者の鎮魂に訪れる人が絶えない。

町志中世編纂委員 宿岩善人

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