芦谷田圃を十二新田と呼び、土村南町の田圃を十二新田と云う。もともと箕輪、芦谷は本村、中村、土村の入会地であった。芦谷は主に中村の人たちが移り住んだ。そのため境界争いが度々繰り返された。
元禄三年(一六九〇)芦谷河原の開田について本村組と土村組との間に出入訴訟が起きた。この時土村組九左衛門外二十六名連印の口書が出されている。元禄三年十月の出入訴訟は土村の願立て通りになり、芦谷河原の内、田方所になる所二十町歩、畑方になる所八町歩を土村の百姓が開発することになり、午堰の水路開設にとりかかった。しかし、意外に難所が多く工事は思うように進捗しなかった。
元禄十四年(一七〇二)十月江戸山谷町名主山口弥兵衛より開田願が出された。小海村からは、願人山口弥兵衛願いに付き賛同が得られた。この約定書にもとづき、山口弥兵衛より改めて代官所へ御新田開発願が出された。
代官市川孫兵衛から江戸御勘定所へ御裁許願が出され、元禄十六年(一七〇三)二月新田開発が許可された。この開発は三か年で完了するものとされた。
この開発は三か年では無理であった。とりわけ水路の開設が崖崩れの多い場所であり、殊に箕輪峠の掘抜きは、つるはし、石ノミでは一寸刻みの手間がかかる苦労の多い極難場であった。伝承によれば山口弥兵衛は意外の出費に苦しみ、人足賃の不払いから遂に殺されたとされている。
元禄十五年(一七〇一)から四年目の宝永三年(一七〇五)山口弥兵衛と土村百姓との間に新田割合についての争論があり、海尻、高岩、馬流の村役人の立会人により議定書を作成して和解している。詳細は省略する。
その後堰普請や修理の度毎に怪我人が続出するのは山口弥兵衛の祟りであると思われ、箕輪峠の東北字土屋地籍に「弥兵衛明神」を建立して、その霊を慰めたという。その後は堰普請の前に弥兵衛明神のお祭りをしてから取り掛かる慣習になった。ここには弥兵衛が測量の時に腰かけたと伝えられる「腰掛の松」と呼ばれた老木があったと云われている。
「午新田の名称」
午新田の名称については元禄十五年午年に開発願を出したからだという説、京保十一年午年に検地を受け午改新田として村高に加えられたという説、地元土村からみて午の方角に当たるからだという説の三説がある。
享保十一年(一七二六)に開田工事が終って検地を請けたという説をとれば元禄十五年(一七〇三)から二十三年目である。
町志中世編纂委員 成澤良夫
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