地券発行と大原事件
大政奉還により徳川幕府の直轄地は地元一般人民に解放された。大原と呼ばれていた軽井沢山や市左衛門新田も、本村・中村・土村三耕地区民に解放され三耕地の入会地となった。
明治十九年、軽井沢山及び市左衛門新田をめぐって一大土地所有権争論が起こった。その原因は、明治政府が幕府領時代の封建的な土地制度を近代化するために、明治五年二月二十四日地券制度法を公布し、個人の土地所有権を再確認したことから始まった。
この地券発行にあたって明治七年七月行政区編成替の時、戸長となった黒沢市左(後に市右衛門と改名)は大原の入会地はその名が市左衛門新田とあるが故、父祖の代より自分の持地であると、市左名義の地券発行を申請しそのとおりの地券が発行された。こうしたことから三耕地区民は相談のうえ、大原の原野は昔からの共有地であると、共有地取戻しの訴訟を岩村田治安裁判所へ提訴した。このとき中村・土村区民は全員参加したが本村では市左衛門との関係があり七十余軒のうち二十余軒が参加しただけである。
当時の三耕地区民はこの紛争を「大原事件」と呼んでいた。裁判取り調べ中に、海瀬村相馬右馬助、穂積村東馬流井出直太朗、南相木村中島嘉仲三氏の仲介により和解が成立し、訴訟は取り下げられた。この訴訟の顛末を原告の代表者たちは「大原事件報告書」を作成し、明治二十年九月十一日付で三耕地区民に頒布した。それによれば現在の小海原は大原の原野と呼んでいた。要約すれば「大原の原野往昔村民開墾し、畑を作り、延宝年間検地を請け、左追々荒蕪地となり、人民一般の馬草秣取場、薪取場となる。文政十三年寅(一八三〇)本郡高野町村庄之丞なる者、当該原野を開発する由にて村内人民に相談する。その後庄之丞開墾出来ず、本村親戚市左衛門に御新田開発を引き譲る。これにより市左衛門新田開発に着手するも、この事業成就することはなかった」。市左衛門新田開発の経過は別の機会に詳しく説明したい。
町志中世編纂委員 成澤良夫
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