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地域の歴史(26)新開

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長野県小海町

原田源吉翁と新開

原田源吉翁は文政十二年、茅野市玉川神之原で原田要右衛門の次男に生まれ、後に原田仲右衛門の養子となる。田舎力士の強者であったが後に心機一転して修験に志し、江戸に出て斯道先達としてその名を知られ、松平田渡守、老中間部一総守等をはじめ大名、旗本に招請されて加持祈祷に霊験を表した。更に夏沢峠の開通を志し、安政四年に諏訪、佐久の道路を走りたるに明治元年の大洪水(天竜川、千曲川)に際し、諏訪山浦の名主等により源吉が夏沢峠の道走りをした為とし、高島藩奉行所に訴えられ半月程、蟄居を命じられ後に放免となった。源吉の不撓不屈の労斗は諏訪、佐久両郡の了解を得て諏訪六ヶ村から三百人、佐久側から三百人の人天を集め遂に明治七年、八里の道の夏沢峠の開通を遂げたのである。明治五年、居を稲子に移し明治六年には稲子岳渋鉱泉(稲子湯)を開湯する。更に明治十二年三月、稲子村総代との間に開墾の契約(大月川扇状地五十町歩)を結び南牧村に水源を求めて八千六百九十四メートルの水路で貯水池に貯水する。新しく出来た新田は稲子で三十町歩と畑の開発に成功し、現在では稲子新田百余町歩と云われている。これにより明治十五年青沼村日向某家族入植続いて三十二年十七戸入植する。この新開部落も、昭和五十六年の二タ小池宅地分譲により二十一戸が集落移転した。また源吉は山伏しの修験者等と赤岳開山を思い立ち、江戸浅草に赤岳講を起こした。安政七年六月、赤岳講の人を連れての不動尊を赤岳頂上に歓請し赤岳を開山した。明治二十九年三月十四日、六十九歳で亡くなる。明治三十五年一月、開墾地の関係者によって稲子新開に頌徳碑が建てられた。昭和二年八月、臼田山岳会が発起となって、その三十五年忌が赤岳頂上で盛大に行われ偉徳を顕彰した。

町志中世編纂委員 井出信人

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