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地域の歴史(27)小海原の開田―市左衛門新田

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長野県小海町

■一 小海原の開田
現在の小海原は江戸時代大原の原野と呼んでいた。
要約すれば「大原の原野往昔村民開墾し、畑を作り、延宝年間検地を請け、追々荒蕪地となり、人民一般の秣取場、薪取場となる。」文化十三年寅(一八一六)本郡高野町村庄之丞なる者、当該原野を開発する由にて村内人民に相談する。その後庄之丞開墾出来ず、本村親戚市左衛門に御新田開発を引き譲る。
これにより市左衛門新田開発に着手するも、この事業成就することはなかった。この新田開発の経過は次の項で述べる。
旧幕府時代は新田開発願を出した者が事業未完成の時は、願人の曲事(お咎め)として処罰の沙汰(対象)とされた。市左衛門これを恐れて巧に大原東方の小沢に水あるを幸いに、僅かの田圃を開発し天保年中検地を請けた。

■二 市左衛門新田
文政十二丑年(一八二九)十一月小海村名主左五右衛門文書には当村字大原御新田とあり市左衛門の新田開発が記されている。
大原新田の水は最初軽井沢から引く計画だった、ここには古田があり水を分けてもらえなかった。そこで庄之丞から協力を頼まれた親戚の市左衛門は水源を南牧村広瀬の男山に求めた。男山山麓の新田部落で地名をお馬屋平という場所の湧き水を利用しようと考え土地の人たちの了解を得た。新田川の下流三〇〇メートルの地点に堰を造った。その水を字大東─たにノ下─大和田─戸谷―瀬戸─大芝─遠見峠─軽井沢へと水路を掘ろうと計画した。だか当時の土木技術では岩切堰は難しく、加えて大芝から軽井沢谷へのトンネル工事は極難工事であった。この時トンネル堀の土を運んで捨てた丘を本村の人たちは「しょいだし」と呼んでいる。前に述べたように市左衛門当初の新田願とは大きく異なった僅かな開田で代官所の検地を請け、市左衛門新田の地名が遺った。
市左衛門は開田資金調達のため江戸に行き、帰りの大宮宿で宿死した。ときに文久二年(一八六二)八月六日行年六十二歳であった。
大正六年刊行の旧南佐久郡史年表には天保六立年(一八三五)小海村市左衛門新田完成とある。これについて新津亨氏は、天保九年(一八三九)戌年閏四月本村役人宛、開発人市左衛門親戚総代、海尻立人記載文書に基づき、市左衛門新田は天保十年(一八四〇)以後の完了と指摘している。

町志中世編纂委員 成澤良夫

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