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地域の歴史(28)大州鉱泉

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長野県小海町

■一 大州鉱泉の伝説
天文年代(一五三一~一五五四)武田信玄と村上義清(坂城城主)の家来額岸寺光戸いう武将が海尻城で戦った時、村上勢が敗れて、大怪我をした湯ノ上三右エ門という武士が山伝いに大州の湯まで来たところ、猟師に脚を撃たれた鹿が自然に湧き出ている湯に浸っているのを見て、ここに隠れ住み傷を治したという。その時馬をつないだ所を「馬つなぎ」と今でも呼んでいる。また、湯の上という地名もあるが、これは地名から生まれた伝説のようにも思われる。

■二 古文書にみる大州の湯
乍恐以書付奉願上候(おそれながらかきつけをもって願い奉りそうろう)
一 私共村方、名所大州と申す場所に、温泉これあり
七八拾年前に、取り立てつかまつり候 長らく荒し候
此度、村中相談の上、少々小屋掛け致し出、つかまつりたく奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)
此段書付をもって、御願申上候仍如件(よってくだんのごとし)
佐久郡小海村土村組 寛政八辰(一七九六)年三月一日 源右衛門 直右衛門
蓑 笠之介様
御手代 大木鉦六郎様

■三 その後の沿革
明治十一年の小海村史には「発見不詳、浴場二カ所、旅舎一戸あり、慶応二年(一八六六)消失し浴場だけが残っている。今でもこの鉱泉をくんでいくものが絶えない」と記されている。
かなり古くからあったものと思われる。
その後、本村の富豪黒沢市右衛門が復興して鉱泉旅館を経営していた。
明治十七年十一月八日秩父困民党の焼き打ちを受けて全焼し、営業鑑札も消失して営業不振になり、明治十八年六月二日郡長宛てに廃業願が提出された。
「大州の湯」がいつ再建されたかは定かではない。明治の頃には甲州の人清水国吉さんが経営して鉱泉宿は二軒あったとされる。その後黒澤家によって再興され『黒沢たみ』によって経営された。かさぶた・できもの・きずの名湯として遠くから入湯に訪れる人が多く、人々に名湯として親しまれた。
戦後その経営が八ヶ岳開発に移行し「草笛荘」として黒沢明氏が経営に当たった。昭和五十三年県道相木線拡張工事のために営業を休止した。

町志中世編纂委員 成澤良夫

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