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地域の歴史(29)馬流劇場

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長野県小海町

馬流劇場の始まりは明治十七年十一月、当時東馬流居住の医師小池捨松から北牧村長中山武三郎宛に家屋建築届けが出されている。
それによると馬流劇場は馬流公開場として建設された。構造上から見ると当初から演劇興行を主要目的として建築されている。
その後、昭和九年十二月十五日「馬流劇場賃借契約書」が結ばれている。その概要は次のような内容である。
賃貸人 馬流繭糸株式
会社社長 黒澤治郎
賃借人 北牧村馬流 臼田誠一
賃借期間 昭和九年十二月十五日より昭和十年十二月十四日
賃借料 四五〇円
この契約はその後も年々更改され継続していった。こうして馬流劇場は絹糸市場が開かれる時以外は臼田誠一によって演劇・活動写真・浪花節・儀太夫その他の興業が行われた。小海町域を中心とする南佐久南部の大衆慰安のセンターとして親しまれた。
昭和一〇年頃よりトーキーが出現して、弁士付きの無声映画にとって代わるようになった。
昭和十二年頃から戦時高揚、忠君愛国思想普及のため戦争ニュース映画の上映が盛んに行われ、児童、生徒の観覧が奨励された。昭和十七年四月、馬流劇場の名称が馬流繭糸株式会社から馬流劇場株式会社に変わった。その後劇場興行主は臼田誠一から次男の臼田勝太郎に代わった。
終戦後、青年団等の娯楽、演劇などの活動が盛んになり、馬流劇場は会場として広く開放された。昭和二十年後半には天然色のカラー映画が普及し、昭和三十年頃ソ連映画「石の花」が上映され大きな感動を与えた。昭和三十年代以降テレビの普及により、映画人口の減少、観客数も減少し、昭和三十九年東京オリンピックにあわせてカラーテレビが普及し、馬流劇場は時代の波と共に昭和四十六年その使命を終えた。平成三年六月十九日火事により建物が消失した。
(本紙写真 本間嶋田三代治氏撮影)

町志中世編纂委員 成澤良夫

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