日本にリンゴのゴールデンデリシャスが導入されて四十年になる昭和三十九年十一月二十二日、日本リンゴ協会主催によるゴールデンデリシャス品評会が東京銀座三越百貨店で開催された。この品評会には主産地の青森県をはじめ全国各地から多数の出品があった。
小海町からは親沢の五点の出品があった。審査の結果、井出勝衛氏(井出和人さん父)のゴールデンデリシャスが高冷地というハンディを克服して見事銅賞に入賞するという快挙を遂げた。高冷地域の農協のなかで果樹部会があったのは当時小海町農協のみであった。先見の明で苦難のなかで不断の研究と栽培技術の向上に取り組んでこられた先覚者の足跡をたどりたい。
昭和四年、当時一七歳の井出正幸さん(井出今朝兵さん父)が下諏訪町の果樹栽培農家へ手伝いに行き、五本のリンゴ苗木を持ち帰り試植した。昭和七年、隣の畑の井出太四男さんと共に、字大菅の二反歩の畑にリンゴ苗木を植え付けた。井出太四男さんは、消毒はハエとり用の器具を使用した。最初のリンゴ品種は「べにさきがけ」と語っていた。
昭和十六年、新津袈裟利さんは先生の勧めもあり、南佐久農林学校卒業記念に字貰井の畑五反歩にリンゴ苗木を植えた。同時期、井出茂五さんも先生の勧めでリンゴの苗木を家に持ち帰った。兄の鋭夫さんは字原の桑園一町歩にリンゴを改植して親沢の人々を驚かせた。
終戦後リンゴ栽培意欲の高まりで、昭和二十四年にはリンゴ栽培農家十戸、栽培面積十町歩に達した。主要品種は、祝・紅玉・ゴールデンデリシャス・印度・国光であった。井出鋭夫、井出太四男、新津市雄、井出啓一郎の各氏が中核となり、生産組合、共同防除、共同選果販売等を実施し、厳しい高冷地リンゴ経営を軌道に乗せた。県下最高令地のリンゴ栽培地域として県果樹試験場の研究員も訪れた。昭和三十六年小海町農協資料によれば、リンゴ成木四町歩の販売高は三〇〇万円で水田十五町歩の玄米販売高三二○万円に四摘していた。
高冷地で実の締まった味の良いボケないリンゴとして生産販売され「親沢のリンゴ」として珍重された。出荷先は神戸市神戸青果であった。しかし高冷地ゆえ晩霜の被害などのため早出し出荷が出来ないなどにより、産地間競争に勝てず、生産量も次第に減少し、昭和四十年代後半以降高原野菜経営に転換されていった。
町志中世編纂委員 成澤良夫
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