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おたや祭り(1)

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長野県長和町

1月14日(火)・15日(水)の2日間、古町豊受(とようけ)大神宮の例祭『おたや祭り』が開催されました。両日ともに平日の開催でしたが、参道や町中には多くの参拝客で賑わっていました。5基の山車の他にもながと不動太鼓や浦安の舞が奉納され、盛大なお祭りとなりました。
14日の夜には、「町を明るく元気にしよう会」による打ち上げ花火が行われ、卒業を迎える町内の児童・生徒や二十歳を迎えられた方の願いを乗せた花火が澄み切った冬空を彩りました。

■「町を明るく元気にしよう会」よりご支援・ご協力の御礼
町内外の多くの事業者や自治会、個人の方から多大なご支援・ご協力をいただき、打ち上げ花火ができましたことに深く感謝申し上げます。今後も町が明るく元気になる取り組みが出来ればと考えていますので、引き続きご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。
町を明るく元気にしよう会
代表 龍野(たつの)賢一(けんいち)さん

〜おたや祭りと山車の由来〜
◎おたや祭り
その起源は江戸時代後期の文政11年(1828年)の文書が、現在のところ最も古い記録として残されていますが、お祭りはこれ以前よりかなり古くから行われてきたと考えられます。
◎山車
おたや祭りには、庶民の生活が安定して余裕が出てくると、お祭を盛んにするために山車が奉納されるようになり、旧家所蔵の天保6年(1835年)の日誌に記載されている、「御田(旅)屋賑わし、かざり物数ヶ所美事也」との一文が、現在、判っている最も古い山車の記録です。

■起源に関わる文献史料を探しています
山車は素朴な農民美術を伝承する貴重な伝統文化として、昭和38年(1963年)に長野県無形民俗文化財選択に指定され、現在は区単位の5場所の保存会によって制作されています。
教育委員会では、おたや祭りや山車づくりが、いつ頃から行われてきたのか、起源に関わる古文書、絵図等を探しています。お心当たりがある方は、教育課文化財係【電話】88・0030まで情報をお寄せください。

■山車紹介
◇〔上宿第1場〕分福茶釜(ぶんぷくちゃがま)綱渡りの場
むかしむかし、あるお寺の和尚(おしょう)さんが町に出かけていき、古い茶釜を買ってもどりました。
和尚さんは小僧さんを呼んで、茶釜をみがかせることにしました。小僧さんがみがいていると「痛い、痛い」と茶釜が悲鳴をあげたのです。びっくりした小僧さんは、和尚さんに報告したのですが、信じてもらえません。和尚さんは「それより、買ってきた茶釜で湯をわかしてみよう」と、茶釜に水を入れ、火にかけました。すると「あちち!」と茶釜から、たぬきの手と足、とうとう頭も出てきました。気味が悪くなった和尚さんは、お寺の前を通りかかった古道具屋の若者に引き取ってもらいました。
古道具屋の若者が茶釜を持ち帰ったその夜、茶釜にばけたたぬきは、「どうか、ここに置いてください。山にいるとき、仲間とばけくらべをして私だけ元にもどれなくなりました。こんな姿じゃ恥ずかしくて帰れません。お金なら私が稼ぎます」と。翌朝、若者は言われた通りにお客さんを集めて「分福茶釜の綱渡り!」と言うと、たぬきは、ぴんと張った綱を渡っていきます。お客さんは大喜び。するとたちまち大人気となりました。お金持ちになった若者は、たぬきに「ありがとう」とお礼を言いました。それからしばらくして、たぬきは茶釜にばけた姿のまま、ある寒い日、とうとう息をひきとってしまいました。
古道具屋の若者は、茶釜をお寺に運んで供養(くよう)をしてもらいました。和尚さんは、その茶釜を譲り受け大事に守り伝えました。茶釜は、いまでも群馬県の茂林寺(もりんじ)というお寺にあるそうです。

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