『日本古城絵図信濃飯山城2』〔部分〕には作成年が明記されていませんが、絵図中に「松平万助」という人物名が記されています。松平万助は寛永16年(1639)に飯山領に入封(にゅうほう)した松平忠俱(ただとも)の幼名であることから、この絵図は松平治政の初期、1640年代に作成されたものと考えられます。
絵図の内容は城内の石垣、堀、櫓の修理願いで、その具体的な箇所と数値が記されています。このうち石垣に注目すると、城内の石垣の総延長153間(278メートル)のうち93間(169メートル)が崩れたとあります。絵図には本丸を囲む石垣の3箇所に破損具合が記されており、本丸西面の石垣45間(81メートル)のうち40間(72メートル)、北面の石垣20間(36メートル)のうち8間(14メートル)、南東面の石垣52間(94メートル)のうち45間(81メートル)が崩れたとあります。この箇所は根石までなくなるほどの崩落だったようで、堀面との比高差17間~20間(30~36m)の急崖(きゅうがい)の頂部に石垣を据えたことが原因のひとつと考えられます。この部分について、本図に後続すると思われる『正保絵図飯山城』〔部分〕(1643~1647)と比べてみると、石垣の部分が板塀になっていることから、石よりも軽量な方法で改修が行われたと推測できます。
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