上杉氏の相続争いである御館(おたて)の乱において、上杉景勝は武田勝頼と和して飯山地方を勝頼に譲り、天正6年(1578)から同10年(1582)まで飯山地方は武田領となりました。
勝頼は飯山地域近隣を含め33カ村に飯山城の破損カ所や脆弱なカ所の改修を命じました。しかしながら勝頼の時代に飯山城がどのように改修されたかは分かっていません。
飯山城の絵図のなかでも古いとされる『信州飯山以粗図写之』やそれ以降の絵図にも変わらずに描かれている箇所に本丸北側の枡形虎口(ますがたこぐち)があります。枡形虎口はL字に形成され、直角に二度曲がらないと入れない仕組みになっています。これは武田氏を代表する築城技術ともいわれており、武田氏の時代に築かれたのかもしれません。
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