『正保絵図飯山城』は正保年間(1644〜1647)に幕府の命により諸藩が作成した絵図です。この絵図には城内の建造物や石垣の高さ、堀の幅や深さなどの軍事情報のほか、城下の町割り、山川の位置や形が詳細に記されています。絵図中に記された松平万助(忠俱 ただとも)の名から、正保2年(1645)頃の飯山城を描いたものと推測され、この頃の飯山城と城下町の姿を知ることができる貴重な史料です。
城内では郭(くるわ)の周囲には柵がめぐらされ、本丸周囲には石垣が描かれています。本丸に二棟、三の丸に一棟の二重櫓(やぐら)が描かれています。城下町は町名が記されていませんが、上町が南限となっていたようで、東西に高さ2.3メートルの土塁(どるい)、その上に柵列が築かれています。城の西側は現在の愛宕町、神明町付近まで町屋が広がっていることから、当初の3町から5町へと発展していることが分かります。また、城を囲むように武家屋敷が配置されますが、この頃は東側の一部が深田となっておりまだ屋敷がみられません。
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