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歴史の小箱 No.423

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■鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いと小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)
小松宮彰仁親王は、幕末・維新の動乱期を生きた皇族です。三島では楽寿園の前身となる別邸を築いたことで知られ、今年は没後一二〇年目にあたります。

彰仁親王は、伏見宮邦家(ふしみのみやくにいえ)親王の第八子として弘化三年(一八四六)に生まれました。数え年三才の時に仁和寺(にんなじ)を相続することが決まり、十三才で戒(かい)を受けて僧となります。仁和寺は、平安時代以来、皇族が門跡(もんぜき)(住職)となることで継承されてきた京都有数の寺院であり、前の門跡の薨去(こうきょ)(死去)を受け、幼くしてその後継者に選ばれたのです。
さて、親王が門跡に必要とされる知識・作法を身につけるため、仏道修行にはげんでいた頃、寺外の情勢は混乱を極めていました。仏道を学びはじめて間もない八歳の時に黒船が来航し、僧侶となった十三才の時に安政の大獄がはじまります。十五才の時に桜田門外の変がおこり、尊攘派(そんじょうは)の過激分子による「天誅(てんちゅう)」が相つぐようになりました。朝廷・幕府の間では調整がくり返され、政局の中心が江戸から京都へ移っていきます。
慶応三年(一八六七)十月、二十二才の時に、幕府が朝廷に政権を返上しました(大政奉還)。これは新政権内にできるかぎり徳川家の勢力を残そうとしたものだったため、討幕計画の挫折を危ぶんだ討幕派により、十二月九日、幕府の廃止と新政府の樹立が強行されました。いわゆる王政復古のクーデターです。この日、親王は有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王らとともに新帝(明治天皇)の御前に召され、俗人に戻るよう命を受けました。皇族の一人として十六才の若き天皇を支えることが求められたのです。
新たに成立した政府と旧幕府の間の緊張関係は、いよいよ予断を許さない状況となりました。そうした中、同月二十五日、旧幕府軍により江戸の薩摩藩邸が焼き打ちされ、ついに両者が全面衝突することとなります。年明け正月三日、戊辰戦争の戦(しょせん)となった鳥羽・伏見の戦いの勃発です。
三日時点では、薩摩・長州等の軍と旧幕府軍とによる「私戦」と見なされかねない状況でした。しかし翌四日、その情勢が一変します。親王が征討大将軍(せいとうだいしょうぐん)に任じられ、錦(にしき)の御旗(みはた)と節刀(せっとう)を授けられたのです。錦旗は朝廷の敵を征伐(せいばつ)する官軍へ授けられた旗、節刀は天皇の命を奉じて官軍を率いる将軍へ下賜された刀であり、正統性の在り処を目に見える形で示すものです。
五日早朝、親王は錦旗を翻(ひるがえ)して戦場に出馬しました。これにより、新政府軍を「官軍」とし、旧幕府軍を「賊軍」とする構図が世に知らしめられました。寺を出てからひと月も経たずに官軍の大将として出陣した親王は、歴史の転換点において重要な役割を担うこととなったのです。

彰仁親王についてさらに詳しく:歴史の小箱404号(令和4年2月1日号)
※QRコードは本紙35ページをご覧ください。

郷土資料館(楽寿園内)
【電話】971・8228

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