■現在の三島市域の成立
現三島市域は、江戸時代の一宿三十二村が明治二十二年(一八八九)に三島町・北上村・錦田村・中郷村の一町三村にまとめられ、その後、町村・市村間の三度の合併を経て、昭和二十九年(一九五四)に成立したものです。
明治二十二年、市制・町村制の施行に連動し、「明治の大合併」と呼ばれる大規模な合併が全国各地で行われました。
現市域では、五ケ村(佐野村・徳倉村・幸原村・沢地村・壱町田村)が合併した「北上村」、十ケ村(谷田村・川原ケ谷村・中村・竹倉村・玉沢村・塚原新田・市山新田・三ツ谷新田・笹原新田・山中新田)が合併した「錦田村」、十六ケ村(梅名村・中島村・大場村・多呂村・北沢村・八反畑村・鶴喰村・青木村・新谷村・玉川村・堀之内村・平田村・松本村・長伏村・安久村・御園村)が合併した「中郷村」が誕生しています。現在市の中心地となっている三島宿も、このときに「三島町」へと改められました。なお三嶋大社の社家村は、これに先立ち明治十年に、三島宿へと組み込まれています。
さて、新たに成立した「北上」「錦田」「中郷」の村名のうち、「北上」は、「三島の北の上」であることから採用された名称といわれています。「錦田」は、川原ケ谷村・五箇新田一帯の呼称であった「錦ノ郷」と、谷田・御門・夏梅木・小山・竹倉一帯の呼称であった「谷田郷」から、一文字ずつを採って名付けられたそうです。「中郷」は、同地域が「中ノ郷」と呼ばれていたことから、まず明治六年創設の学校に「中郷学校」の名が付けられ、その校名から村名を採るに至ったということです。
この一町三村が現在の市域への第一歩を踏み出したのは、それから二十八年が経った昭和十年のことでした。四月一日付で、北上村と三島町とが合併し、「三島町」になっています。
さらに六年を経た昭和十六年四月二十九日には、三島町と錦田村とが合併しました。このとき両町村は廃止され、その区域に市制が施行されて、「三島市」が設置されることとなりました。
その際、「三島市」の名称が採用されたのは、この地に官幣(かんぺい)大社三島神社(現三嶋大社)が鎮座し、「三島」の名が古くから広く知られていて、新市の名称としてふさわしいと考えられたためでした。両町村ともに「何ら異議なし」として、新市の名称に採用されています。
最後の中郷村と三島市との合併は、戦後、昭和二十九年に果たされました。四月一日に南小学校講堂で合併祝賀式が催され、現在の市域が成立しました。
※「歴史の小箱」は4月から奇数月掲載となります。(次回は5月1日号)
楽寿園内の郷土資料館では、3月9日(土)よりパネル展「三島の村々ー旧村の歴史ー」を開催します。
問合せ:郷土資料館(楽寿園内)
【電話】971・8228
<この記事についてアンケートにご協力ください。>