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歴史の小箱 No.435

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■三島出身の芸術家 野口三四郎(のぐちさんしろう)
みなさんは、三島出身の人形作家、野口三四郎をご存じでしょうか。三島に長くお住まいの方は、かつて三島のお土産品として市内各地で販売されていた人形とともにその名を憶えているかもしれません。
三四郎は明治三十四年(一九〇一)、現在の三島市本町に生まれました。中学校(現在の高等学校)では美術部に入り、時には授業を抜け出して野原でスケッチをするなど、自由な学生生活を送ったそうです。その後、上京して写真技師として働いていたデパートから、昭和四年(一九二九)に京城(現在のソウル)で開催された朝鮮博覧会に派遣されました。この朝鮮滞在が三四郎にとって転機となったようです。博覧会終了後もすぐには帰国せず、朝鮮各地の風景や人々の生活をスケッチしました。帰国後は勤務先をやめ、人形制作をはじめました。
自身の名前からとって「三四呂(みよろ)人形」と名付けた人形は、主に伝統的な張子の技法を使って制作され、和紙のやわらかな風合いと軽やかさが特徴です。風にゆれるブランコが表現された「春日庭(はるのにわ)」や、走り回って遊ぶ子どもたちの一瞬をとらえた作品「影ふみ」は、写真家としての三四郎のまなざしと精緻(せいち)な張子技術が出会って生まれた作品といえるでしょう。
三四郎が人形制作を志した昭和初期は、子どもの玩具として見られていた人形を芸術として認めさせようという人形芸術運動がおこった時代でした。そうした時代の中で三四郎の三四呂人形は、作家仲間や関係者たちから次第にその芸術性が認められていきました。昭和十一年に開催された第一回綜合人形芸術展では、源兵衛川で遊ぶ自身の甥たちを表現したといわれる作品「水辺興談」が最高賞である人形芸術賞に選ばれました。
しかし、私生活ではつらいことが続きました。妻と娘を病で亡くし、自身も病を得ます。人形賞受賞の年には療養のため実家に戻り、昭和十二年、三島で三十五歳の生涯を終えました。
楽寿園内の郷土資料館で開催中の企画展「野口三四郎の芸術世界」では、三四呂人形のほか、三四郎の芸術的転機となったと考えられる朝鮮滞在時のスケッチなど絵画作品も数多く展示しています。三島の生んだ芸術家・野口三四郎の芸術をぜひご覧ください。

三四呂人形の「黒猫」「ぶち猫」をモチーフにした一筆箋が新登場!

郷土資料館(楽寿園内)
【電話】971・8228

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