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下田の人が最も恐れる天災は「津波」かもしれません。
下田町は、江戸時代だけでも3回(元禄・宝永・安政)津波被害を受けました。特に170年前に下田を襲った安政東海地震による大津波は町に壊滅的な打撃を与えました。
◆安政東海地震
安政元年(1854)11月4日午前に遠州灘で発生した安政東海地震は、推定マグニチュード8.4、被害は関東から近畿に及びました。
下田での揺れは「石塔が倒れる(川路日記)」程度でしたが、間もなく大津波が町を襲いました。7~8回の波が数時間にわたり押し寄せたといい、特に第二波が強烈で「黒煙を立てた大浪が千軒の町屋を将棋倒しのように打ち砕いた(松浦武四郎日記)」と記され、また、湾内に停泊していたディアナ号の航海誌には「海面が6.4メートル以上の高さになり、海が町全体を覆いつくした」、波が沈静化した後「湾は町の建物の破片で埋め尽くされ、陸地が広がったように見えた」と記録されています。
町屋841軒が全壊、人口3,851人の内、死者99人という大災害でした。
津波後の風景は凄惨でした。「嵐や火事の後は何か残るが、津浪の後は、洗いざらい流され石が散らばるだけ(航海誌)」となり、「親を尋ね、子を探す」混乱の中、逃げ延びた人々は山で不安と空腹で眠れぬ夜を過ごしました。
◆復興事業
幕府は、津波後も開港場下田を維持する方針でした。そのため、多額の公金を下田復興に充て、波除堤防の再築や欠乏所の設置、奉行所の建築等を計画的に進め、町も幕府の支援を得て町内の再整備と町民生活の安定に尽力しました。震災の翌年は復興工事に費やし、以降、安政6年の神奈川開港(下田閉鎖)まで、西洋諸国に開かれた港としての役割を果たし続けました。
安政津波の犠牲者数は、家屋被害に比べ相対的に少ないといわれています。それは、過去の震災経験から「大きな地震の後に津波が来る」ことを町民が教訓としていたからでしょう。
津波の被害を何度も受けながら、それを乗り越え、発展させてきた歴史が、この町に刻まれています。
問合せ先:企画課政策推進係(河内庁舎2階)
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